夕方の五時を少し過ぎると、台所からいい匂いがしてくる。
玉ねぎを炒める音。鍋が小さくぐつぐつと鳴る音。それから、かすかに鼻をくすぐる、醤油と出汁の混ざった湯気。
「今日、なんかいいことあった?」
母はこちらを振り返らないまま、そう言った。お玉を持った手だけがゆっくり動いている。
「別に。普通だよ」
そう答えながら、ランドセルを床に下ろす。椅子を引いて腰かける。テーブルの上には、今朝の新聞がまだ畳まれたまま置いてある。
「普通って、けっこうすごいことだと思うよ」
母はそう言って、少しだけ笑った気がした。後ろ姿だったから、よく見えなかったけれど。
あのころ、わたしはその言葉の意味がよくわからなかった。普通の一日に、なにがすごいんだろうと思っていた。
でも今は、わかる気がする。
何事もなく終わる一日が、どれだけ贅沢なことか。誰かが台所に立っていてくれることが、どれだけ当たり前じゃないか。
「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる声があること。それだけで、家はあたたかくなれた。
夕飯の支度をしながら、ふとそのことを思い出す。
玉ねぎを切っていたら、目が滲んできた。玉ねぎのせいにしながら、わたしは静かに笑った。
台所の窓の外、空がゆっくりとオレンジに染まっていく。
今日も、普通の一日が終わろうとしていた。


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