📖 この台本について
⏱ 読了時間:約5分(1434字)
👤 登場人物:女性1名(1人用)
🎭 ジャンル:ホラー・怪談
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
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作品について
深夜のオフィスビル、休憩室の自販機。そこで起きるのは、大きな事件ではなく、たった一円の釣り銭が合わないという、ごく小さな違和感だった。日常のすぐ隣にある不気味さを、静かに描いた作品である。
本作の読みどころは、恐怖の対象が終始「見えない」まま進行する点にある。何かに襲われるわけでも、姿を見せる何者かがいるわけでもなく、ただ記憶と釣り銭という、目に見えにくいものが少しずつ欠けていく。その静かな喪失感が、じわじわと読み手の背筋を冷やしていく。
朗読する際は、序盤はあくまで淡々とした日常の語りで進め、違和感が積み重なるにつれて、声のトーンをわずかに落としていくと効果的である。ラストの静けさまで、感情を大きく振らないことが、この作品の余韻を活かす鍵になる。
▶ 朗読のポイントを見る(朗読される方向け・クリックで展開)
① 語りのトーン
全体を通して、淡々とした声で語ることを意識してください。感情を込めすぎず、事実を報告するような落ち着いた調子が、この作品の不気味さを引き立てます。
② 緩急のつけ方
「一円分だけ、何かを持っていかれている」という一文の前後では、少し間を長めに取ってください。気づきの瞬間を、声を張らずに、静かに沈めるように読むと効果的です。
③ 感情表現のコツ
「ありがとう」という一文が印字される場面は、この作品のクライマックスです。囁くように、けれど震えを含んだ声で読むことで、安堵とも恐怖ともつかない感情がより伝わります。
④ ラストの処理
最後の一文は、声量を落とし、ゆっくりと語尾を消すように読み終えてください。答えを出さないまま余韻だけを残す終わり方なので、断定的にならないよう注意してください。
台本本文
深夜十一時、休憩室の自販機の前に立つのは、いつも私ひとりだった。ビルの警備員が見回りに来る時間まで、あと三十分。静まり返ったフロアに響くのは、自販機のモーター音と、自分の足音だけだった。
ボタンを押すと、缶がひとつ落ちてくる。硬貨を入れ、釣り銭を受け取る。けれど今夜も、財布の中で数えた小銭は、レシートの合計より一円少なかった。
「また、一円……」
最初は気にしなかった。古い機械だから、誤作動もあるだろうと思っていた。けれど三日目、五日目、十日目。数えるたびに、必ず一円足りない。管理会社に問い合わせても、「機械には異常がありません」という返事だけが返ってきた。点検にも来てもらったが、内部の硬貨の量には過不足がなかったという。
同僚に話しても、笑って取り合ってもらえなかった。「気にしすぎだよ」と言われるたび、私は自分でもそう思おうとした。財布の中の一円くらい、大した問題ではないはずだった。けれど、その一円だけが、いつまでも合わなかった。
ある夜、レシートを何気なく裏返すと、印字された日付が目に入った。今日の日付ではなかった。一年前の、今日と同じ曜日の日付だった。何かの印字ミスだろうと思い、もう一度買い直してみた。同じ日付が、また印字された。
背筋が冷えた。けれど、それだけではなかった。その日のことを思い出そうとして、私は気づいた。何も思い出せない。一年前の同じ時期の記憶が、すっぽりと抜け落ちていた。何をしていたのか、誰と話したのか、休みだったのか出勤していたのか、まるで白紙だった。手帳を見返しても、その週のページだけが不自然に空白のままだった。
「一円分だけ、何かを持っていかれている」
そう思った瞬間、頭の奥で小さな音がした。硬貨が転がるような、乾いた音だった。振り返っても、誰もいなかった。
次の夜も、私は自販機の前に立った。ボタンを押す指が、少しだけ震えていた。缶が落ちる。釣り銭が出てくる。今度も一円足りない。財布の中には、いつからか使っていない一円玉が一枚だけ残っていた。ずっとしまい込んでいたはずの、古い一円玉だった。いつ手に入れたのかも、思い出せなかった。
私はその一円玉を、そっと返却口に戻した。
しばらく何も起こらなかった。休憩室の照明が、一瞬だけ揺れたように見えた気がした。けれど、それだけだった。自販機のモーター音は、変わらず低く続いていた。
やがて、レシートの発行口から、一枚の紙がゆっくりと出てきた。私は息を止めて、それを覗き込んだ。そこにはこう印字されていた。
「ありがとう」
金額の記載はなかった。日付も、店名も、何も印字されていなかった。ただその四文字だけが、静かに紙の中央に並んでいた。
私はその紙を、しばらく見つめていた。何かが満たされたような、それでいて何かが確かに失われたような、不思議な感覚だけが残った。取り戻せない記憶の分だけ、心のどこかが軽くなったようにも感じた。悲しいのか安堵しているのか、自分でもわからなかった。
休憩室の照明は、いつもと変わらず白く光っていた。自販機のモーター音だけが、規則正しく低く響いていた。壁の時計は、いつの間にか見回りの時刻を指していた。
私は財布をしまい、休憩室を出た。振り返らなかった。
もう、一円足りないことはなかった。財布の中の小銭は、いつもぴったりと合うようになった。
けれど今でも、財布の中を数えるとき、私は少しだけ手を止めてしまう。あの一年前の記憶が、まだどこかで静かに息をしているような気がして。
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