【無料・フリー台本】つないだ手のぬくもり|10分・1人用・感動|声の書庫

感動・泣ける

📖 この台本について
⏱ 読了時間:約10分(3000字)
👤 登場人物:女性1名(1人用)
🎭 ジャンル:感動
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
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その手のぬくもりを、私はずっと忘れていたと思っていた。

思い出したのは、三月の終わり。冬の名残を引きずるような冷たい風が吹く、曇り空の午後だった。

私は出張の帰り道、乗り換えのために降りた駅で、ふと足を止めた。改札を出たすぐ先に、小さな商店街が続いている。色褪せたアーケードの屋根。錆びかけた看板。八百屋の店先に並ぶ、不揃いなみかん。

ああ、ここだ。

かつて母と暮らした町だった。

二十年以上も前のことだ。まだ小学校に上がる前、母と二人、この商店街をよく歩いた。父は私が生まれてすぐに亡くなったと聞いている。母は昼間はクリーニング店で働き、夜は内職をしていた。忙しい人だった。それでも買い物に出るときは、必ず私の手を握ってくれた。

「絶対に手を離さないでね」

母はいつもそう言った。真剣な顔で、けれどどこか優しい目をして。私はその手の大きさと温かさが好きだった。自分の小さな手が、すっぽり包み込まれるあの感覚。それだけで、世界中のどんな怖いことからも守られている気がした。

けれど、子どもはいつか手を離す。

中学に上がった頃から、私は母と並んで歩くことを避けるようになった。思春期特有の気恥ずかしさもあった。でも、それだけではなかった。母の手は荒れていた。指先はひび割れ、爪は短く切りそろえられ、関節は赤く腫れていた。その手が、私には貧しさの象徴のように思えたのだ。

友達の母親たちは、きれいにネイルを塗った手をしていた。参観日に来る母の、洗剤で荒れた手が恥ずかしかった。なんて残酷な子どもだったのだろう。

高校を卒業して、東京の大学に進学した。母は何も言わずに送り出してくれた。駅のホームで、母が何か言いかけて、やめたのを覚えている。その時も私は、母の方を振り返らなかった。

大学を出て就職し、都会での暮らしに馴染んでいくうちに、母との連絡は年に数回の電話だけになった。電話口の母はいつも明るかった。「元気でやってるよ」「こっちのことは気にしなくていいから」。そう繰り返す声は、少しずつ老いていくのが分かった。それでも私は、帰らなかった。忙しいという言い訳を並べて。

本当は、分かっていた。帰れば、あの商店街を歩くことになる。母の手を見ることになる。あの頃の自分の冷たさと向き合うことになる。それが怖かったのだ。

商店街を歩き始めた。八百屋はまだあった。隣の花屋はシャッターが下りている。豆腐屋だった場所はコインランドリーに変わっていた。それでも、道の形は変わらない。母と歩いた、あの道のままだった。

角を曲がると、小さな公園がある。ブランコと砂場だけの、何の変哲もない公園。ベンチに誰かが座っていた。

小柄な老女が、膝の上に買い物袋を置いて、ぼんやりと空を見上げている。

足が止まった。

「……お母さん」

声が出たのは、考えるよりも先だった。老女がゆっくりとこちらを向いた。一瞬の沈黙。それから、その目がゆっくりと大きく見開かれた。

「……あら」

母はそれだけ言って、微笑んだ。まるで昨日別れたばかりの人に会ったように、穏やかに。

「近くまで来たから」と、私は言い訳のように言った。母は「そう」と頷いて、ベンチの隣を軽くたたいた。座りなさい、という意味だ。昔からそうだった。

隣に座ると、母の匂いがした。洗濯洗剤の清潔な匂い。二十年以上経っても、変わらない匂い。

「元気だった?」と母が聞く。「まあ、なんとか」と私が答える。それだけの会話が、ひどく温かかった。

母の手が目に入った。あの頃よりもずっと細くなって、皺が深く刻まれている。指先のひび割れはそのままだった。けれど、もうそれを恥ずかしいとは思わなかった。その手が何を守ってきたのか、今の私には分かるから。

「お母さん、手、まだ荒れてるね」

「ああ、これねえ。もう治らないの。年だからね」

母は可笑しそうに笑った。私は黙って、その手に自分の手を重ねた。母の指がぴくりと動いた。驚いたのだと思う。当然だ。もう何年も、この手に触れていなかったのだから。

「……冷たい手」

母がぽつりと言った。

「昔は関係ないくらい温かかったのにね」

その言葉を聞いて、鼻の奥がつんとした。昔、母の手を握って歩いた時の記憶が、堰を切ったようにあふれてきた。夕暮れの商店街。母に手を引かれて渡った横断歩道。転んで泣いた時に頬に触れてくれた指の感触。全部覚えている。忘れたふりをしていただけだった。

「ごめんね、お母さん」

声が震えた。何に謝っているのか、自分でも全部は分からなかった。手を離したこと。帰らなかったこと。あの手を恥じたこと。全部だ。全部に対して、ごめんなさいと言いたかった。

母は何も言わなかった。ただ、私の手を、きゅっと握り返してくれた。あの頃と同じ力で。いや、少しだけ弱くなったかもしれない。でも確かに、あの時と同じぬくもりが、そこにはあった。

「絶対に手を離さないでね」

私がそう言うと、母は一瞬きょとんとした顔をして、それから目を細めて笑った。

「……それ、お母さんのセリフ」

曇り空の隙間から、細い光が差し込んできた。三月の風はまだ冷たい。それでも、つないだ手のあいだだけは、確かに温かかった。

いつか離してしまった手を、もう一度つなぎ直すのに、遅すぎるということはないのだと、私はそのとき初めて知った。

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