📖 この台本について
⏱ 読了時間:約15分(4500字)
👤 登場人物:女性1名(1人用)
🎭 ジャンル:ホラー
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
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わたしがそのアパートに引っ越してきたのは、三月の終わりのことだった。
木造二階建て、築四十年。家賃は三万八千円。駅からは徒歩十五分。正直、条件だけ見れば選ぶ理由などどこにもなかった。それでも内見したとき、なぜか胸の奥に「ここでいい」という感覚があった。いまとなっては、あの直感が何だったのか、わからない。不動産屋を出るときに空を見上げたら、妙に低い雲が垂れ込めていた。あのとき引き返せばよかったと、いまは思う。
部屋は二〇二号室。角部屋で、隣は二〇一号室だった。
不動産屋の担当者は、やけに早口でそこを説明した。「お隣は長いこと空室なんですよ。静かで逆によかったりしますよね」と、笑いながら言った。笑い方が、少しだけ不自然だった。でも当時のわたしには、そんなことを気にする余裕もなかった。新しい生活が始まる。それだけで頭がいっぱいだった。
引っ越しを終えたのは夜の八時を過ぎた頃だった。段ボールを積み上げたまま、コンビニで買ったおにぎりを食べて、そのままフローリングに寝袋を敷いた。疲れていたはずなのに、なかなか眠れなかった。天井の木目が、なんとなく顔に見えて、視線を逸らした。
天井を見ていると、隣から音がした。
――コン。
最初は、気のせいだと思った。古い建物だ。木が鳴るくらいのことはある。でも、それは続いた。
――コン。コン。
規則的だった。一定のリズムで、壁をノックするような音。人が叩いているとしか思えない間隔だった。わたしは時計を見た。夜の十一時二十分。こんな時間に、空室から音がする。
わたしは起き上がって、壁に耳を当てた。冷たかった。三月の夜の壁は、思ったよりずっと冷たかった。耳を押し当てると、壁の向こうに広がる暗闇が、そのまま体に流れ込んでくるような気がした。そして、音はぴたりと止んだ。
長い沈黙のあと、わたしはまた横になった。疲れていたせいか、いつの間にか眠っていた。夢は見なかった。いや、見たのかもしれないが、覚えていなかった。
翌朝、目が覚めると窓の外が白んでいた。鳥の声がした。何ともないような、普通の朝だった。昨夜の音のことは、ほとんど忘れていた。
その日から、音は毎晩続いた。
決まって夜の十一時を過ぎた頃に始まり、一時間ほどで止む。コン、コン、というノックのような音。ときどき、それに混じって、何かを引きずるような低い音がした。家具でも動かしているのだろうか、と最初は思った。でも空室のはずだ。引きずる音はいつも同じ方向へ向かい、壁の端まで来ると、また戻っていった。まるで、出口を探しているかのように。
四日目の夜、わたしは管理人に連絡した。管理人は七十代の老人で、一階の端の部屋に住んでいた。
「隣の部屋から音がするんですけど、誰か入居したんでしょうか」
電話口の老人は、少し間を置いてから言った。「いや、あそこは空いとるよ。何年も空いとる」
「でも、毎晩音がして――」
「古い建物やから、よう鳴るんや。気にせんでええ」
それだけ言って、電話は切れた。
気にするな、と言われるほど気になるのが人間というものだ。翌日、わたしは自分で二〇一号室のドアの前に立った。ドアは古びた木製で、ノブはくすんだ真鍮色だった。表札はない。郵便受けには何も入っていなかった。新聞の勧誘シールすら貼られていない、本当に誰も触れていないようなドアだった。
ドアに手を触れた瞬間、冷気を感じた。廊下と明らかに違う、ドアそのものが冷たかった。三月末にしては、おかしいくらいに。
わたしはノックした。三回。
返事はなかった。当然だ。空室なのだから。
でも、帰ろうとしたとき、聞こえた気がした。かすかに、ドアの向こうから、息を吸う音が。深く、ゆっくりと、まるで長い眠りから目覚めるような、そんな息の音が。
わたしは走って自分の部屋に戻った。
それからは、隣の音を無視しようとした。イヤホンで音楽を聴きながら眠るようにした。それでも夢の中に、コン、コン、という音が入り込んできた。夢の中では音の出所が見えた。壁ではなく、床から聞こえていた。わたしの寝ているすぐ下から。目が覚めるたびに、全身に汗をかいていた。
一週間が過ぎた頃、同僚に話した。
「それ絶対やばいやつじゃん」と彼女は言った。「引っ越したほうがいいよ」
「でも引っ越したばかりだし」
「そういう問題じゃないって。ほら、心霊スポット巡りしてる人のブログとかあるじゃん、ああいうの調べてみたら?」
冗談めかして言われたが、その夜わたしはアパートの名前で検索してみた。
――何も出てこなかった。
住所で検索した。事故物件サイトも確認した。それでも何も出てこなかった。ただひとつだけ、地元の掲示板の古い書き込みが引っかかった。十年以上前のものだった。
「〇〇アパート、誰か住んでる人いる?二〇一号室だけずっと空いてるらしいけど」
返信は一件だけ。
「あそこは入れないらしいよ。管理人さんが鍵なくしたって言ってたけど、本当のことは違うって聞いた」
それ以上は書かれていなかった。スレッドはそこで途切れていた。書き込んだ本人も、それ以上は触れなかった。あるいは触れられなくなったのか。
本当のこと、とはなんだろう。
その夜の音は、いつもより少し早く始まった。十時半を過ぎた頃から、コン、コン、と壁を叩く音。そしてその夜初めて、声のようなものが聞こえた。
声、というより、うめき声に近かった。低くて、くぐもっていて、言葉になっていないような。でも何度も繰り返されるうちに、わたしはその音が言葉だと気づいた。一音ずつ、区切るように発されるその声は、壁を通してもはっきりと聞き取れた。
――あ、け、て。
開けて、と言っていた。
わたしは布団の中で、膝を抱えたまま夜明けまで動けなかった。声はその後も断続的に続いた。同じ言葉を、同じ抑揚で、何度も何度も繰り返した。やがて夜明け前に止んだ。止んだときの静けさが、声よりも怖かった。
翌日、会社を休んだ。体が動かなかった。昼過ぎまで布団の中にいて、やっと起き上がり、お茶を飲んだ。窓の外は穏やかな春の午後で、桜が少しだけ咲き始めていた。
夜になることが、怖かった。
でも夜は来る。どうやっても来る。
そしてその夜、音は来なかった。
静かだった。風の音すら聞こえないくらいに静かで、その静けさがまた怖かった。何かが変わった気がした。でも何が変わったのかわからなかった。準備が整ったのかもしれない、とふと思った。何の準備なのかは、考えたくなかった。
翌朝、ゴミを出しに外廊下に出たとき、二〇一号室のドアが開いていた。
数センチだけ、開いていた。
薄暗い隙間から、何も見えなかった。音もしなかった。ただ、そこだけ空気が違った。冷たくて、古くて、長い時間が溜まったような匂いがした。土と、黴と、それから何か甘ったるいものが混じった、嗅いだことのない匂いだった。
わたしは近寄らなかった。ゴミを出して、急いで部屋に戻った。
午後、管理人に電話した。「二〇一号室のドアが開いてます」と言うと、老人はまた間を置いた。前より長い沈黙だった。
「……そうか」
それだけだった。
「確認しなくていいんですか」
「ええわ」
「でも――」
「触らんでええ。絶対に中を見たらあかん」
声が、低くなっていた。
「なぜですか」
老人は答えなかった。しばらくして、「あの部屋にはな」と言いかけて、止まった。そしてまた沈黙。電話口の向こうで、老人が息を吸う音が聞こえた。
「あの部屋には、もう帰れんくなった人がおるんや」
電話が切れた。
帰れなくなった人。
わたしはその言葉をずっと考えていた。死んだ人、という意味なのか。それとも文字通り、帰れなくなった、ということなのか。帰りたいのに帰れない。出たいのに出られない。だから、開けて、と言っていたのか。
夕方、もう一度廊下に出た。ドアはまだ開いていた。
わたしは立ち止まった。見てはいけない、と言われた。でも足が動いた。少しずつ、引き寄せられるように、ドアに近づいていった。
隙間から中を覗いた。
暗かった。電気が通っていないのか、窓からの光だけがうっすらと差し込んでいた。部屋の中には、何もなかった。ただの空っぽの和室。畳は変色して、端がめくれていた。押し入れの襖が少し開いていた。
ほっとした瞬間だった。
押し入れの中に、人がいた。
座っていた。膝を抱えて、こちらを向いて、じっとしていた。顔は見えなかった。髪が長くて、顔に垂れていた。でも確かに、こちらを向いていた。白いワンピースを着ていた。裾が、汚れていた。
わたしは声も出なかった。足が動かなかった。体が固まって、そのまま数秒、いや数十秒、互いに動かないまま向き合っていた。
やがてその人が、ゆっくりと顔を上げた。
髪の隙間から、目が見えた。
泣いていた。声もなく、ただ涙を流しながら、わたしを見ていた。そしてかすかに、口が動いた。
――た、す、け、て。
わたしは走った。部屋に駆け込んで、鍵をかけて、チェーンをかけて、そのまま床に崩れた。
震えが止まらなかった。電話を取り出したが、誰に電話すればいいのかわからなかった。警察?でも何を言えばいい。隣の空室に人がいます、泣いています、助けてと言っています――それだけで信じてもらえるのか。救急?でもあれは生きている人間なのか。わからなかった。何もわからなかった。
気づけば夜になっていた。
そして音が始まった。
コン、コン。いつものリズム。でも今夜は違った。音は壁からだけではなかった。ドアからも聞こえた。部屋のドア、玄関のドア、そこからも同じリズムでノックの音がした。
――コン。コン。
わたしは動かなかった。息を殺して、壁際に張り付いて、ただ耳を澄ませていた。
ドアノブが、ゆっくりと回る音がした。
鍵はかかっている。チェーンもある。でもそのノブは、少しずつ、確かに回っていた。
そして止まった。
長い沈黙。
それから、ドアの向こうから声がした。さっき見た、あの人の声に似ていた。低くて、かすれていて、でも確かに言葉だった。
「……もう、逃げられないよ」
静かな声だった。怒っているわけでも、脅しているわけでもない。ただ、事実を告げるような、穏やかな声だった。それがいちばん怖かった。
翌朝、わたしは荷物をまとめた。段ボールに詰める時間もなく、スーツケースに入るだけ入れて、部屋を出た。
廊下に出ると、二〇一号室のドアは閉まっていた。何事もなかったかのように、静かに閉まっていた。
わたしは振り返らずに階段を下りた。管理人の部屋の前を通り過ぎるとき、ドアの隙間から老人の声が聞こえた気がした。
「逃げても、意味ないんやけどな」
聞こえなかったふりをした。
それから三ヶ月が経つ。
いまは別の街に住んでいる。新しい部屋は明るくて、騒がしくて、隣の生活音がよく聞こえる。上の階では子供が走り回っている。それが、今はありがたい。人の気配があるということが、これほど安心できるものだとは知らなかった。
ただひとつだけ、気になることがある。
新しい部屋の壁に、夜になると音がする。
――コン。コン。
同じリズム。同じ間隔。隣の部屋には、別の住人がいるはずだ。確認した。ちゃんと入居者がいると管理会社も言っていた。だからこれは、普通の生活音だ。そう思うことにしている。
わたしはもう壁に耳を当てない。音楽も聴かない。ただ布団をかぶって、朝が来るのを待つ。
でも今夜、音の合間に声が聞こえた。
さっきの、あの穏やかな声で。
――ねえ、開けて。
――もう、一緒にいようよ。
壁が、冷たい。


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