【無料・フリー台本】開かずの間|10分・1人用・ホラージャンル|声の書庫

ホラー/怪談

祖母が亡くなったのは、ぼくが十二歳の夏だった。

葬儀が終わり、親戚が一通り帰っていったあと、父さんと母さんは祖母の家の片付けを始めた。古い木造の二階建てで、裏には竹藪がある。日中でも薄暗く、廊下を歩くと床板がぎしぎしと鳴った。家中に線香と、古い畳の匂いが染みついていた。

ぼくは片付けの手伝いという名目で、家の中を探検していた。祖母はもの持ちが良く、どの部屋にも知らない道具や古い写真が眠っていた。セピア色に変色した写真のなかで、若い祖母が知らない男の人と並んで笑っていた。祖父ではない、と思った。祖父の顔なら、仏壇の遺影で見ていた。

二階の突き当たりに、ひとつだけ開かない部屋があった。

木の引き戸に、新しい南京錠が二つ。そのうえから、和紙のようなものが何枚も貼り重ねられている。墨で何か書かれているが、文字は滲んでいて読めない。和紙は何層にも重なっていて、一番下のものは茶色く変色し、ぼろぼろになっていた。

ぼくは父さんに聞いた。

「この部屋、なに?」

父さんは雑巾を絞る手を止めて、ちらりとそちらを見た。その目が、一瞬だけ泳いだのを、ぼくは見逃さなかった。

「ああ、開かずの間だよ。じいちゃんが死んだ年から、ずっと閉めてあるんだ。三十年くらいになるかな」

「なんで閉めてるの?」

「さあな。ばあちゃんが、絶対に開けちゃいけないって言ってた。それだけだ」

父さんはそれ以上話さなかった。母さんもそのやり取りを聞いていたはずなのに、何も言わずに台所へ戻っていった。普段はおしゃべりな母さんが、その話題のときだけ黙り込むのが、妙に気にかかった。

昼過ぎ、ぼくは仏壇の前で、古いアルバムをめくっていた。祖母が若いころの写真、父さんの子どもの頃の写真。そのなかに、一枚だけ、不自然に破り取られたページがあった。残された台紙の跡から、そこには誰かが写っていたはずだった。

母さんがお茶を運んできて、ぼくの手元を覗き込んだ。そして、小さくため息をついた。

「それ、あんまり見るもんじゃないよ」

「ねえ、お母さん。ここ、誰が写ってたの?」

母さんは少し迷って、それから低い声で言った。

「……お父さんの、お兄さんだよ」

ぼくは驚いた。父さんに兄がいるなんて、聞いたことがなかった。

「小さいときに、亡くなったんだって。詳しいことは、お母さんも知らないの。この家じゃ、ずっとタブーだったから」

母さんはそれだけ言って、台所に戻っていった。

その夜、ぼくは祖母の家に泊まった。両親はまだ片付けが残っていて、明日も朝から作業をするらしかった。

一階の客間に布団を敷いてもらい、早めに横になった。けれど、どうにも眠れない。天井の木目が、見ているうちに人の顔のように見えてくる。昼間聞いた、会ったことのない伯父さんのことが、頭から離れなかった。

耳を澄ますと、家のあちこちから小さな音がした。柱の鳴る音。雨戸の軋む音。竹藪が風に揺れる音。

そのなかに、ひとつ、混ざっている音があった。

とん、とん、とん。

規則正しい、指で木を叩くような音。

最初は外からだと思った。けれど、耳を澄ませるうちに、それが二階から聞こえていることに気づいた。ちょうど、あの開かずの間のあたりから。

とん、とん、とん。

三回鳴って、止まる。しばらくして、また三回。

ぼくは布団のなかで固まっていた。誰かが叩いている、と思った。部屋の中から、誰かが。

父さんたちは隣の部屋で眠っている。起こしに行こうかと思ったけれど、体が動かなかった。もし、父さんを連れて行って、音が止んでいたら。「気のせいだ」と笑われるだけだ。それに、父さんの、あの泳いだ目を思い出すと、なぜだか、父さんには知られたくないとも思った。

ぼくは少しだけ、勇気を出したかった。

懐中電灯を握って、そっと布団を出た。

階段は、一段ごとに別の音で鳴いた。きい、ぎ、みし。まるで、上るなと言われているみたいだった。手すりに触れた指が、ひんやりと冷たかった。夏の夜なのに、二階に近づくほど、空気が重くなっていく気がした。

二階の廊下は、月明かりで青白く照らされていた。突き当たりの開かずの間の前に立つと、叩く音はぴたりと止んだ。

代わりに、声がした。

「あけて」

子どもの声だった。

ぼくと同じくらいの、男の子の声。

「ねえ、あけてよ」

ぼくは息が止まりそうになった。頭のなかで、父さんの言葉がぐるぐる回った。「絶対に開けちゃいけない」。ばあちゃんが、そう言っていた。

でも、声は続いた。

「さむいよ。くらいよ。おねがい、あけて」

泣きそうな声だった。小さくて、弱くて、今にも消えてしまいそうな。

ふと、ぼくは思ってしまった。もしかして、これは伯父さんなのだろうか。小さいころに亡くなったという、父さんのお兄さん。閉じ込められたまま、ずっとひとりで、寒い思いをしてきたのだろうか。

ぼくは南京錠に手を伸ばしかけて、止めた。

和紙に書かれた滲んだ文字が、月明かりのなかで少しだけ読めた気がした。「出すな」と、そう書いてあった。

出すな。

助けろ、でも、逃がすな、でもない。出すな。

まるで、中にいるものが「人」ではないみたいな、その書き方に、ぼくは背筋が冷たくなった。

ぼくは手を引っ込めた。

「ごめん」

小さな声で、そうつぶやいた。

すると、扉の向こうの声が、ぴたりと止まった。

しばらくの沈黙のあと、別の声が聞こえた。

今度は、低い、大人の男の声だった。

「いいこだ」

ぼくは、腰が抜けた。

その場にへたり込んだまま、どうやって一階まで下りたのか、よく覚えていない。気がつくと、自分の布団のなかで、朝日が差し込んでいた。

朝食のとき、ぼくは父さんに、昨夜のことを話さなかった。話せば、また二階に行くことになる気がして、怖かったからだ。父さんは味噌汁をすすりながら、ちらりと、ぼくの顔を見た。何か言いたそうにして、それから、何も言わずに視線を茶碗に戻した。

ぼくは、父さんも知っているのだ、と思った。たぶん、父さんも、子どものころに、あの声を聞いたのだ。

片付けは三日で終わった。開かずの間は、南京錠も和紙もそのままに、ぼくたちはあの家を離れた。帰りの車のなかで、父さんは一度だけ、ぽつりと言った。

「よく、我慢したな」

ぼくは、何のことか聞き返せなかった。

家は、しばらくして取り壊された。

解体業者が父さんに電話をかけてきたのは、作業が終わった日の夕方だったそうだ。

父さんは電話を切ったあと、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。

「二階の、あの部屋な」

「うん」

「中、空っぽだったってさ」

ぼくはうなずいた。うなずきながら、背筋がすっと冷たくなっていた。

空っぽ。

三十年間、南京錠で封じられ、和紙で覆われ、家族の誰もが口を閉ざしてきた部屋。そこには、何もなかった。

それなら、あの夜、ぼくに「あけて」と言ったのは、誰だったのだろう。

「いいこだ」と褒めてくれたのは、誰だったのだろう。

父さんは、電話のあと、仏壇の前に長く座っていた。誰の位牌に向かって手を合わせているのか、ぼくには、もう聞けなかった。

ぼくは、今でも時々、思うのだ。

もし、あの夜、扉を開けていたら。

出てきたのは、泣いていた男の子のほうだったのだろうか。

それとも──。

夜、ふとした瞬間に、家のどこかで木を叩く音がする。

引っ越した、今の家でも。

とん、とん、とん。

三回鳴って、止まる。

ぼくはいつも、布団のなかで息を殺す。

返事をしてはいけない、と、体が覚えている。

そして、祈る。

どうか、もう、「いいこだ」と言われませんように、と。

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