祖母が亡くなったのは、ぼくが十二歳の夏だった。
葬儀が終わり、親戚が一通り帰っていったあと、父さんと母さんは祖母の家の片付けを始めた。古い木造の二階建てで、裏には竹藪がある。日中でも薄暗く、廊下を歩くと床板がぎしぎしと鳴った。家中に線香と、古い畳の匂いが染みついていた。
ぼくは片付けの手伝いという名目で、家の中を探検していた。祖母はもの持ちが良く、どの部屋にも知らない道具や古い写真が眠っていた。セピア色に変色した写真のなかで、若い祖母が知らない男の人と並んで笑っていた。祖父ではない、と思った。祖父の顔なら、仏壇の遺影で見ていた。
二階の突き当たりに、ひとつだけ開かない部屋があった。
木の引き戸に、新しい南京錠が二つ。そのうえから、和紙のようなものが何枚も貼り重ねられている。墨で何か書かれているが、文字は滲んでいて読めない。和紙は何層にも重なっていて、一番下のものは茶色く変色し、ぼろぼろになっていた。
ぼくは父さんに聞いた。
「この部屋、なに?」
父さんは雑巾を絞る手を止めて、ちらりとそちらを見た。その目が、一瞬だけ泳いだのを、ぼくは見逃さなかった。
「ああ、開かずの間だよ。じいちゃんが死んだ年から、ずっと閉めてあるんだ。三十年くらいになるかな」
「なんで閉めてるの?」
「さあな。ばあちゃんが、絶対に開けちゃいけないって言ってた。それだけだ」
父さんはそれ以上話さなかった。母さんもそのやり取りを聞いていたはずなのに、何も言わずに台所へ戻っていった。普段はおしゃべりな母さんが、その話題のときだけ黙り込むのが、妙に気にかかった。
昼過ぎ、ぼくは仏壇の前で、古いアルバムをめくっていた。祖母が若いころの写真、父さんの子どもの頃の写真。そのなかに、一枚だけ、不自然に破り取られたページがあった。残された台紙の跡から、そこには誰かが写っていたはずだった。
母さんがお茶を運んできて、ぼくの手元を覗き込んだ。そして、小さくため息をついた。
「それ、あんまり見るもんじゃないよ」
「ねえ、お母さん。ここ、誰が写ってたの?」
母さんは少し迷って、それから低い声で言った。
「……お父さんの、お兄さんだよ」
ぼくは驚いた。父さんに兄がいるなんて、聞いたことがなかった。
「小さいときに、亡くなったんだって。詳しいことは、お母さんも知らないの。この家じゃ、ずっとタブーだったから」
母さんはそれだけ言って、台所に戻っていった。
その夜、ぼくは祖母の家に泊まった。両親はまだ片付けが残っていて、明日も朝から作業をするらしかった。
一階の客間に布団を敷いてもらい、早めに横になった。けれど、どうにも眠れない。天井の木目が、見ているうちに人の顔のように見えてくる。昼間聞いた、会ったことのない伯父さんのことが、頭から離れなかった。
耳を澄ますと、家のあちこちから小さな音がした。柱の鳴る音。雨戸の軋む音。竹藪が風に揺れる音。
そのなかに、ひとつ、混ざっている音があった。
とん、とん、とん。
規則正しい、指で木を叩くような音。
最初は外からだと思った。けれど、耳を澄ませるうちに、それが二階から聞こえていることに気づいた。ちょうど、あの開かずの間のあたりから。
とん、とん、とん。
三回鳴って、止まる。しばらくして、また三回。
ぼくは布団のなかで固まっていた。誰かが叩いている、と思った。部屋の中から、誰かが。
父さんたちは隣の部屋で眠っている。起こしに行こうかと思ったけれど、体が動かなかった。もし、父さんを連れて行って、音が止んでいたら。「気のせいだ」と笑われるだけだ。それに、父さんの、あの泳いだ目を思い出すと、なぜだか、父さんには知られたくないとも思った。
ぼくは少しだけ、勇気を出したかった。
懐中電灯を握って、そっと布団を出た。
階段は、一段ごとに別の音で鳴いた。きい、ぎ、みし。まるで、上るなと言われているみたいだった。手すりに触れた指が、ひんやりと冷たかった。夏の夜なのに、二階に近づくほど、空気が重くなっていく気がした。
二階の廊下は、月明かりで青白く照らされていた。突き当たりの開かずの間の前に立つと、叩く音はぴたりと止んだ。
代わりに、声がした。
「あけて」
子どもの声だった。
ぼくと同じくらいの、男の子の声。
「ねえ、あけてよ」
ぼくは息が止まりそうになった。頭のなかで、父さんの言葉がぐるぐる回った。「絶対に開けちゃいけない」。ばあちゃんが、そう言っていた。
でも、声は続いた。
「さむいよ。くらいよ。おねがい、あけて」
泣きそうな声だった。小さくて、弱くて、今にも消えてしまいそうな。
ふと、ぼくは思ってしまった。もしかして、これは伯父さんなのだろうか。小さいころに亡くなったという、父さんのお兄さん。閉じ込められたまま、ずっとひとりで、寒い思いをしてきたのだろうか。
ぼくは南京錠に手を伸ばしかけて、止めた。
和紙に書かれた滲んだ文字が、月明かりのなかで少しだけ読めた気がした。「出すな」と、そう書いてあった。
出すな。
助けろ、でも、逃がすな、でもない。出すな。
まるで、中にいるものが「人」ではないみたいな、その書き方に、ぼくは背筋が冷たくなった。
ぼくは手を引っ込めた。
「ごめん」
小さな声で、そうつぶやいた。
すると、扉の向こうの声が、ぴたりと止まった。
しばらくの沈黙のあと、別の声が聞こえた。
今度は、低い、大人の男の声だった。
「いいこだ」
ぼくは、腰が抜けた。
その場にへたり込んだまま、どうやって一階まで下りたのか、よく覚えていない。気がつくと、自分の布団のなかで、朝日が差し込んでいた。
朝食のとき、ぼくは父さんに、昨夜のことを話さなかった。話せば、また二階に行くことになる気がして、怖かったからだ。父さんは味噌汁をすすりながら、ちらりと、ぼくの顔を見た。何か言いたそうにして、それから、何も言わずに視線を茶碗に戻した。
ぼくは、父さんも知っているのだ、と思った。たぶん、父さんも、子どものころに、あの声を聞いたのだ。
片付けは三日で終わった。開かずの間は、南京錠も和紙もそのままに、ぼくたちはあの家を離れた。帰りの車のなかで、父さんは一度だけ、ぽつりと言った。
「よく、我慢したな」
ぼくは、何のことか聞き返せなかった。
家は、しばらくして取り壊された。
解体業者が父さんに電話をかけてきたのは、作業が終わった日の夕方だったそうだ。
父さんは電話を切ったあと、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「二階の、あの部屋な」
「うん」
「中、空っぽだったってさ」
ぼくはうなずいた。うなずきながら、背筋がすっと冷たくなっていた。
空っぽ。
三十年間、南京錠で封じられ、和紙で覆われ、家族の誰もが口を閉ざしてきた部屋。そこには、何もなかった。
それなら、あの夜、ぼくに「あけて」と言ったのは、誰だったのだろう。
「いいこだ」と褒めてくれたのは、誰だったのだろう。
父さんは、電話のあと、仏壇の前に長く座っていた。誰の位牌に向かって手を合わせているのか、ぼくには、もう聞けなかった。
ぼくは、今でも時々、思うのだ。
もし、あの夜、扉を開けていたら。
出てきたのは、泣いていた男の子のほうだったのだろうか。
それとも──。
夜、ふとした瞬間に、家のどこかで木を叩く音がする。
引っ越した、今の家でも。
とん、とん、とん。
三回鳴って、止まる。
ぼくはいつも、布団のなかで息を殺す。
返事をしてはいけない、と、体が覚えている。
そして、祈る。
どうか、もう、「いいこだ」と言われませんように、と。


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