【無料・フリー台本】君がいた春の終わりに|15分・1人用・恋愛ジャンル|声の書庫

恋愛/青春

📖 この台本について
⏱ 読了時間:約15分(4500字)
👤 登場人物:女性1名(1人用)
🎭 ジャンル:恋愛
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
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春が終わろうとしている。

桜はもうとっくに散って、街路樹はうっすらと緑を纏いはじめていた。あの季節のにおいがする。雨上がりのアスファルトと、どこかから流れてくる懐かしいにおい。鼻の奥が、ちゃんと覚えていた。体というのは正直なもので、頭が「忘れよう」と思っていても、においだけは全部記憶している。

三年前のこと、思い出すつもりなんてなかった。

でもこの街に戻ってきたら、全部が待ち構えていたみたいに飛び込んでくる。角を曲がれば見慣れた商店街。シャッターが増えたけれど、あのパン屋だけはまだある。コッペパンに塩バターを挟んで、袋のまま歩きながら食べた。あなたはいつも少しだけわたしのを奪って、「ひとくちだけ」って言うくせにがぶっと大きく食べた。

「ひとくちって、それひとくちじゃないから」

「え、ひとくちでしょ。口、大きいんだよね」

笑いながら言うから、怒れなかった。いつもそうだった。わたしはあなたに、ちゃんと怒れたことが一度もなかった。怒っても仕方ない気持ちになるのか、それとも怒りたくなかったのか。たぶん後者だと思う。あなたと過ごす時間を、険悪な空気で埋めたくなかった。それだけ、大事にしていた。

改札を抜けて、ホームへの階段を上る。ここで何度、見送ったろう。あなたはいつもギリギリに来て、駆け込み乗車をして、閉まりかけたドアの向こうで手を振った。わたしは毎回「危ないよ」って思いながら、それでも笑って手を振り返した。心配より先に、笑顔が出てしまうのが不思議だった。あなたがいると、そういうことが起きた。理屈じゃなく、体が勝手にあなたのほうを向いた。

ベンチに座る。ホームは閑散としていた。平日の昼過ぎ、乗客は数えるほどしかいない。向かいのホームに、高校生らしい二人組が並んでいる。制服のままで、肩が触れそうな距離で、でも触れていない。その微妙な間隔が、なんだかいとおしかった。あの距離感を、わたしはよく知っている。触れたいのに触れない、踏み込みたいのに踏み込めない、あの感じ。

あのころのわたしたちも、あんな感じだったのかな。

付き合ってもいないのに、友達以上の距離で、でも何も言えなくて。一緒にいる時間が増えるたびに、胸のどこかがじわじわと温かくなって、それと同時に怖くなっていった。この関係に名前をつけたら、何かが壊れる気がして。名前のないまま、ふわふわと続けていれば、ずっとそばにいられると思っていた。子どもみたいな考えだと、今なら思う。でもあの頃は、本当にそう信じていた。

だから何も言わないまま、春が終わった。

あなたが転勤になったのは、ゴールデンウィーク明けの月曜日だった。

「大阪に行くことになった」

ランチのあと、駅へ向かう道で、あなたはさらっと言った。あまりにさらっと言うから、最初は冗談だと思った。でも続く言葉がなくて、周りの雑踏だけがうるさくて、わたしは「そっか」としか言えなかった。「そっか」って。三文字。三年間の全部を、三文字で受け取ってしまった。

あなたは少しだけ間を置いて、「急だよね、ごめん」と言った。謝ることじゃないのに、とは思った。でもそれも声に出せなかった。引き止める言葉も、寂しいという言葉も、全部が喉の手前で固まって、出てこなかった。

引き止めればよかった、とあとから何度思ったかわからない。でもあの瞬間、わたしの口は動かなかった。喉の奥で何かがつっかえて、言葉にならなかった。あなたを引き止める言葉を持っていなかったのか、それとも、持っていたのに使えなかったのか。今でも、わからない。たぶん、持っていたんだと思う。「行かないで」くらいの言葉は、ちゃんとあった。ただそれを口にする勇気が、わたしにはなかった。

引っ越しの日、見送りに行こうかどうか迷った。結局、行かなかった。行ったら何かが変わるかもしれなかったし、何も変わらないかもしれなかった。どちらも怖くて、部屋でじっとしていた。窓の外、春の光が妙に眩しくて、カーテンを閉めた。

送別会は職場の人たちと居酒屋でやった。賑やかで、あなたはずっと笑っていた。わたしも笑った。笑い続けた。笑うことしかできなかった。帰り道、二人になった瞬間だけ少し静かになって、でもすぐに「じゃあね」って言われた。

「元気でね」

「うん、またね」

それだけだった。それだけで、終わった。「またね」という言葉がこんなに軽くなることがあるなんて、知らなかった。いつかまた会えるという意味ではなく、ただ別れの挨拶として使われる「またね」。あなたの声で聞いたその言葉は、やけに静かに、わたしの胸の奥に落ちた。

電車が来る。わたしは立ち上がって、でも乗らなかった。次の電車でいい。もう少しだけ、ここにいたかった。このホームが、あなたとの記憶の中にある場所で、ここにいる間だけは、まだ繋がっている気がした。

スマホを取り出して、連絡先を開く。あなたの名前は、まだそこにある。三年間、一度も消さなかった。消そうとしたことは何度かあった。新しい年が始まるたびに、ちゃんと前を向こうと思って、アドレス帳を開いた。でもそのたびに指が止まった。消してしまったら、本当に終わる気がして。残しておけば、いつかまた繋がれる気がして。そんな根拠のない期待が、わたしをここまで引っ張ってきた。

最後のメッセージは「到着しました。こっちも桜きれいだった」。

わたしは「よかった」と返して、それきりだ。「よかった」。また三文字。わたしはどうして、あなたに肝心なことを言えないんだろう。「寂しい」でも「会いたい」でも、もっと長い言葉があったはずなのに。指が止まって、三文字だけ打って、送信した。あなたからの返信はなかった。それでよかったのかもしれない。それ以上続いていたら、もっと苦しくなるだけだった。

ホームの端まで歩く。風が吹いて、どこかから花びらが一枚、ふらりと落ちてきた。今頃どこかで咲いている桜か、あるいはもっと前に散った花びらが風に乗ってここまで来たのか。わからないけれど、白くて薄くて、光の中でゆっくりと落ちていった。落ちきるまで、目で追った。地面に触れた瞬間、もうそれはただの花びらで、どこにでもあるものになっていた。

きれいだな、と思った。

あなたに教えたいな、と思った。

その順番で思ったことに、自分でも少し驚いた。きれいなものを見ると、まだ真っ先にあなたのことを考えるのか、わたしは。三年経っても。この街に戻ってきても。変わっていないのか、それとも変われていないのか。どちらにしても、あなたはまだわたしの中にいる。

三年間、どうしていたんだろう。大阪は合っていたんだろうか。仕事は、うまくいっているんだろうか。誰か、好きな人はできたんだろうか。

その最後の問いだけ、少しだけ胸が痛かった。痛くなること自体、まだ気にしているということで、我ながら未練がましいとは思う。でも痛いものは痛い。三年という時間が、何かをすっかり消してくれるわけじゃない。薄くはなる。でも消えはしない。

次の電車が来た。今度は乗った。

扉が閉まって、電車が動き出す。窓の外を、見慣れた景色が流れていく。あのパン屋の看板が見えた。あの曲がり角が見えた。二人で何度も歩いた道が、窓の外をすうっと過ぎていった。早い。景色が流れるのは、いつも早い。大事なものほど、気づいたときにはもう過ぎ去っている。

ふと、スマホを取り出した。

あなたの名前を開いた。

長い間、画面を見つめた。

最後のやりとりが、また目に入る。「こっちも桜きれいだった」「よかった」。この会話から三年が経っている。三年間、何も言えなかった。でも今日、この街に戻ってきて、あのパン屋を見て、あのホームに立って、花びらが落ちるのを見て、わたしは何かが少しだけ動いた気がした。動いた、というより、解けた、に近いかもしれない。固まっていた何かが。

そして、打ち始めた。

「久しぶり。今日、あの街に帰ってきた。パン屋、まだあったよ」

送信ボタンの上に、指を置いた。

これを送ったら、何かが変わるかもしれない。返信が来るかもしれないし、来ないかもしれない。来たとしても、もうあの頃には戻れないかもしれない。それでも、送らないよりはいい気がした。三文字で受け取って、三文字で返して、それで終わりにした三年前のわたしより、少しだけ、前に進める気がした。

電車が、トンネルに入った。画面の光だけが、暗がりの中で白く浮かんだ。

わたしはまだ、指を動かさなかった。

トンネルを抜けたら、送ろう。

そう決めた。決めてしまったら、心臓がうるさくなった。三年ぶりに、ちゃんとうるさくなった。こういう感覚、忘れていた。胸がうるさくなるほど誰かのことを思うなんて、もうないと思っていた。でも、あった。まだ、あった。

光が戻ってくる。

春の終わりの、白い光が。

指が、動いた。

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