📖 この台本について
⏱ 読了時間:約10分(約3000字)
👤 登場人物:男性1名(1人用)
🎭 ジャンル:ミステリー・サスペンス
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
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作品について
深夜だけを走る一台のタクシー。毎月、月の終わりの晩になると、同じ女性客が乗り込んできて、いつも同じ場所を「ゆっくり」と告げます。降りるでもなく、ただ古い写真館を窓越しに眺めるだけ。理由を問わないのが夜の仕事の作法だと知りながら、運転手は次第に、その静かな繰り返しの意味を考えるようになります。
この作品の読みどころは、運転手のささやかな「疑い」が、やがて深い理解へと反転していく心の動きです。事件らしい事件は起こりません。けれど、誰の人生にもある「なくなっていく場所」と「言えなかったお別れ」が、夜の街の静けさの中で静かに立ち上がってきます。
朗読は、低く落ち着いた語りが似合います。声を張らず、夜の運転席でひとり呟くような距離感で。謎を解くのではなく、ひとつの記憶をそっと見送るような、抑えたトーンで読むと作品の余韻が生きてきます。
① 語りのトーン 全編を通して、夜の運転席でひとりごちるような、低く抑えた声が効果的です。語り手は事件を追う探偵ではなく、ただ夜を流す中年の運転手。冒頭の「深夜の街は、昼間とはまるで別の生き物だ」は、淡々と、けれど少し疲れた温度で。聞き手に語りかけるのではなく、自分の胸の内を確かめるように読みましょう。 ② 緩急のつけ方 女性客のセリフ「もう少しだけ、ここに」は、ぐっと声を落とし、前後に長めの間を取ってください。逆に、運転手が彼女を怪しむ場面はやや速度を上げ、心のざわめきを表現します。更地を見つめる場面では、いったん完全に止まるくらいの沈黙を置くと効果的です。 ③ 感情表現のコツ クライマックスの告白「あそこは、わたしの両親の店だったんです」は、感情を込めすぎないこと。涙をこらえる人ほど声は静かになります。震えは語尾にほんの少し滲ませる程度に抑えると、かえって深く響きます。 ④ ラストの処理 結びの「……どちらまで」は、誰もいない座席への呼びかけです。問いかけのように上げず、消え入るように。最後の一文は、ほんの少しだけ前を向いた明るさを残して、ゆっくりとフェードアウトさせてください。▶ 朗読のポイントを見る(朗読される方向け・クリックで展開)
台本本文
深夜の街は、昼間とはまるで別の生き物だ。信号だけが律儀に色を変えて、人の姿はほとんどない。私はもう十五年、この時間ばかり走っている。日付が変わる頃に車を出して、空が白む前に車庫へ戻る。夜の客には、夜の客なりの事情がある。終電を逃した会社員、病院帰りの家族、誰にも言えない場所へ向かう人。私はただ、行き先まで運ぶだけだ。理由は聞かない。それが、長いことこの仕事を続けてきた私なりの、たったひとつの作法だった。
その客に初めて気づいたのは、たしか三年前の、ある月の終わりの晩だった。
「すみません、北町の角まで。……ゆっくりで、お願いします」
歳の頃は六十前後だろうか。きちんとした身なりの女性で、声は低く、落ち着いていた。北町の角と言われて、私は少し戸惑った。あのあたりは商店街の外れで、もう店じまいした建物ばかりが並んでいる。深夜に用があるような場所では、とても思えなかった。
「ゆっくり、ですか」
「ええ。急がなくて、いいんです」
言われた通り、私は速度を落として角へ近づいた。すると彼女は、窓の外の一軒の建物を、じっと見つめ始めた。古い写真館だった。色あせた看板に、かろうじて「写真」の二文字が読める。シャッターは下りていて、もう何年も人の出入りがない様子だった。
彼女は降りようとしなかった。ただ、窓ガラスに額を寄せるようにして、その暗い建物を見ていた。
「……もう少しだけ、ここに」
「はい」
一分か、二分か。やがて彼女は小さく息を吐いて、言った。
「ありがとうございます。出してください」
料金はきっかり。お釣りはいりません、と彼女は言って、夜の中へ消えていった。妙な客だ、とそのときは思った。それきりだろう、とも。
ところが翌月の終わり、彼女はまた乗ってきた。同じ時間、同じ言葉で。
「北町の角まで。ゆっくりで」
それから毎月、月の終わりの晩になると、彼女は私の車を見つけて手を挙げる。行き先はいつも同じ写真館の前。降りることはなく、ただ眺めて、「もう少しだけ」とつぶやく。判で押したように、同じだった。
正直に言えば、私は少し、怪しんでいた。何か、人に言えない事情があるんじゃないか。あの建物で、誰かを待っているのか。あるいは——よくない言い方だが——空き家を物色しているのか。取り壊しを待つ土地を、誰かの代わりに見張っているのか。夜の仕事を長く続けていると、つい、悪い想像ばかりが先に立つ。
だが、彼女の横顔には、そういう影はなかった。むしろ、何か大切なものを胸に抱えているような、静かな顔だった。私はとうとう、理由を聞けないまま、ただ毎月、彼女をあの角まで運び続けた。
異変があったのは、半年ほど前のことだ。その晩、写真館の前に、見慣れない看板が立っていた。「解体工事のお知らせ」。来月から、あの建物は取り壊されるらしい。
彼女も、それに気づいたはずだった。いつもより長く、彼女は窓の外を見ていた。五分、十分。私は黙って待った。やがて、彼女は震える声で言った。
「……とうとう、なくなるんですね」
「あの、お客さん」
私は思い切って、聞いてみた。長いこと、聞けずにいたことを。
「あの建物に、何か……ご縁が、おありなんですか」
彼女はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと話し始めた。
「あそこは、わたしの両親の店だったんです。小さな写真館でね。父がカメラを構えて、母が子どもをあやして。七五三や、成人式や、結婚式の前の写真を、何十年も撮ってきた店」
私はバックミラー越しに、彼女を見ていた。
「わたしが生まれて初めて撮ってもらった写真も、あそこで。家族三人で写った、たった一枚きりの写真です。父も母も、もういません。店も、とっくに人手に渡って。……でも、建物だけは、まだ残っていた。だから、月に一度だけ、顔を見に来ていたんです。元気にしてる、って」
建物に、元気にしてる、と。私は、何も言えなかった。
「変でしょう。建物に話しかけるなんて。でもね、運転手さん。あの壁の中に、わたしの子どもの頃が、全部しまってある気がして。あそこが消えたら、わたしの帰る場所も、本当に、なくなってしまう」
その晩、彼女は降りる前に、ハンドバッグから一枚の古い写真を取り出して、しばらく見つめていた。そして、いつものように料金を払い、夜へ消えた。後部座席に、その写真が一枚、落ちていた。セピア色の、若い夫婦と、赤ん坊。背景には、あの写真館の、まだ新しかった頃の看板。三人とも、笑っていた。
返さなければ、と思った。だが私は、彼女の名前も、連絡先も、知らなかった。
そして、解体の月が来た。その晩、私はいつもの場所で待っていた。彼女が来たら、写真を返すつもりだった。だが、夜が更けても、彼女は現れなかった。北町の角の写真館は、もう、跡形もなかった。きれいに更地になって、街灯の光だけが、何もない地面を照らしていた。
私は車を停めて、その更地をしばらく眺めた。ここに、確かに、一軒の写真館があった。父親がカメラを構え、母親が子どもをあやし、たくさんの家族が、笑って写真に収まった場所が。そして、その娘が、月に一度、暗がりからそれを見守っていた場所が。もう、ない。
不思議なものだ。私はその建物に、入ったこともない。彼女の名前さえ知らない。それなのに、胸の奥が、しんと冷えた。
私にも、昔、迎えに行けなかった人がいる。最後にもう一度だけ乗せてやれば、と、何度も思った人が。夜の街を流していると、たまに、後部座席に、その人がいるような気がする。けれど、振り返れば、いつも誰もいない。
彼女は、私とは違うやり方で、別れを言いに来ていたのだ。なくなる前に、何度も、何度も。元気だった、と。覚えているよ、と。
私は、グローブボックスからあの写真を取り出した。セピア色の三人は、相変わらず笑っていた。私はそれを、サンバイザーに挟んだ。返す相手は、もう来ない。だが、捨てる気にも、なれなかった。
それから、私はまた車を出した。メーターを倒して、夜の街へ。信号だけが、律儀に色を変えていく。後部座席は、空っぽだ。けれど、なぜだろう。今夜は、その空っぽが、少しだけ、あたたかい気がした。
「……どちらまで」
誰もいない座席に、私はそっと、声をかけてみた。返事は、ない。それでいい。私は今夜も、誰かを乗せるために、ゆっくりと、街を流していく。
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