📖 この台本について
⏱ 読了時間:約7分(約2100字)
👤 登場人物:男性1名(1人用)
🎭 ジャンル:ホラー・怪談
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
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作品について
三年に一度、山向こうにだけ立つという名の無い市――互市(ごし)の言い伝えを題材にした一編です。声を出さず、目と指先だけで取り引きをするその市には、決して交わしてはならない約束事があります。
この作品の読みどころは、会話が一切ないまま緊張感が積み上がっていく構成にあります。祖母の遺した言葉を思い出しながら、主人公が禁忌にじりじりと近づいていく過程を、静かな地の文だけで描いています。
朗読する際は、序盤は昔話を語るような落ち着いた口調を保ち、市の場面からは抑えたトーンのまま緊張を高めていく読み方が効果的です。
▶ 朗読のポイントを見る(朗読される方向け・クリックで展開)
① 語りのトーン
全体を通して声を張らず、昔話を語り継ぐような落ち着いた声で読むのが向いています。祖母の言葉を回想する場面は、特に柔らかく。
② 緩急のつけ方
「影より軽いものを差し出すな」という一文の前後は、一拍間を空けてください。市の情景描写は淡々と、テンポを一定に保つと不気味さが増します。
③ 感情表現のコツ
湯呑みを見つけて心が揺れる場面は、感情を大きく出さず、迷いを声のわずかな震えで表現するのがおすすめです。
④ ラストの処理
最後の一文「本当に自分だろうかと」は、声を落としながら、余韻を残すように語尾を弱めて締めくくってください。
台本本文
三年に一度、あの山を越えた先に、名の無い市が立つと祖母は言っていた。
正式には互市というらしい。文字だけ見れば、ただの交易のようにも思える。けれど祖母は、あれは人と、人でないものが取り引きをする場所だと、声を潜めて話していた。
ルールは単純だった。欲しいものがあれば、決して声に出してはいけない。指で示すか、目で見つめるだけでいい。値は向こうが勝手に決める。そして、決して影より軽いものを差し出してはいけない。
子供の頃は、そんな話も数ある昔話の一つだと思っていた。祖母が死んでから初めて迎える市の晩、気づけば僕は、誰に誘われたわけでもないのに山道を登っていた。
月明かりだけの通りに、提灯はひとつも灯っていない。並んでいるのは屋台というより、ただ布を一枚敷いただけの台だった。売り手たちは誰も声を出さない。並ぶ客も、誰一人として口を開かなかった。
布の上には、見覚えのあるようで、どこか歪んだ品物が並んでいた。誰かの結い髪、片方だけの下駄、糸の切れた数珠。値札は、どの台にもない。
僕は一軒の台の前で、思わず足を止めた。祖母が長年使っていたのと、よく似た蜜柑色の湯呑みが置かれていた。縁の欠け方まで、記憶にあるものと同じだった。
台の向こうに座る老人は、何も言わず、ただゆっくりと僕の足元を指した。月に照らされて伸びる、僕自身の影を。
「影より軽いものを差し出すな」――祖母の声が、耳の奥で蘇る。けれど、あの湯呑みをこのまま見送ることが、僕にはどうしてもできなかった。
僕は月明かりから、半歩だけ後ろに下がった。足元にあった影が、するりと台の上へ流れていくのが見えた。老人は何も言わず、ただ深く頷いた。
湯呑みを受け取り、僕は振り返らずに山を下りた。家に辿り着く頃には、もう朝の光が差し込んでいた。
台所で湯呑みに白湯を注いだとき、ふと気づいた。窓から差し込む陽の中に立っているのに、床に、僕の影が伸びていない。
指先で自分の腕を確かめても、体は確かにそこにあった。ただ、影だけが、どこにも落ちていなかった。
湯呑みからは、祖母がよく淹れていたのと同じ、番茶の匂いがした。それだけで、少し安心してしまう自分がいるのが、余計に恐ろしかった。
その夜、窓の外に誰かが立っている気配がした。振り返っても、誰もいない。ただ月明かりの下に、影だけがひとつ、ぽつんと伸びていた。
僕のものではない、誰かの影だった。
それから三年が経つ。また、あの市の立つ晩が近づいている。行かなければ、と思う自分がいる。今度は何を差し出せばいいのか、僕にはまだわからない。
ただ、あの晩以来、日向に立つたびに思う。次に半歩下がるとき、戻ってくるのは、本当に自分だろうかと。
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