📖 この台本について
⏱ 読了時間:約10分(2916字)
👤 登場人物:女性1名(1人用)
🎭 ジャンル:恋愛・青春
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
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作品について
剣道部の朝練という限られた時間の中で、少しずつ育っていく淡い想いを描いた作品です。防具の匂いや竹刀の音といった感覚的な描写を通して、口数の少ない先輩と、うまく言葉にできない後輩の距離感を丁寧に積み重ねていきます。
この作品の読みどころは、大きな出来事が何も起こらないまま関係が終わっていくという構成にあります。告白も再会もない代わりに、手渡された柄革という小さな品物に、語られなかった気持ちが静かに宿っていく様子を味わってください。
朗読する際は、感情を強く押し出すのではなく、抑えた語り口で淡々と時間の経過を追うトーンが合っています。特に先輩の短い台詞は、素っ気なさの中にある不器用さがにじむよう、あっさりと発声するのがおすすめです。
① 語りのトーン 全体を通して、過去を振り返る大人の女性が静かに語るトーンを基本にしてください。感傷的になりすぎず、淡々とした口調を保つことで、後半の余韻が生きてきます。 ② 緩急のつけ方 先輩の台詞「ここ」「大丈夫、次」は、短く抑えた声で、間を詰め気味に発声すると、口数の少ない人物像が伝わりやすくなります。逆に地の文の情景描写では、少しゆっくりめに間を取ってください。 ③ 感情表現のコツ 卒業式の場面では、感情を爆発させず、声を少し震わせる程度に抑えることで、「言えなかった」もどかしさが際立ちます。囁くように「先輩」と心の中で呼びかける部分は、息多めに小さく発声するのが効果的です。 ④ ラストの処理 最後の一文は、余韻を残すためにゆっくりと、語尾を軽く伸ばすように読み終えてください。竹刀の音が聞こえてくるような静けさを、声のトーンで表現することを意識しましょう。 朗読のポイントを見る(朗読される方向け・クリックで展開)
台本本文
剣道部の朝練は、いつも同じ匂いから始まる。汗と、防具の革と、少しかび臭い体育館の畳。その匂いを吸い込むと、今でも竹刀の乾いた音が耳の奥で、かすかに響く気がする。
高校二年の春、私は剣道部の中で一番下手だった。面をつけると視界が狭くなり、竹刀を構えるだけで腕が震えた。声を出す稽古では、いつも先輩たちより一拍遅れて掛け声が出た。そんな私の隣に、いつも黙って立ってくれる先輩がいた。三年の、佐伯先輩だった。
佐伯先輩は口数が少なかった。指導係でもないのに、朝練が終わったあと、いつも私の面や小手の位置を無言で直してくれた。「ここ」と一言だけ言って、ずれた小手の紐を締め直す。それだけで、その日一日、なぜか背筋が伸びたような気がした。
先輩の稽古を、私はいつも少し離れたところから見ていた。竹刀を振り下ろす音、踏み込む足の音、面をつけたまま短く発する気合の声。無駄のない動きの中に、私はずっと憧れに似た何かを見ていたのだと思う。でもそれを言葉にすることは、最後までできなかった。
部室は狭くて、防具の匂いがいつもこもっていた。先輩と二人きりになる時間は、いつも短かった。防具を片付ける数分の間、他の部員が出て行ったあとに残る静けさだけが、唯一二人だけの時間だった。
ある日の朝練後、部室の隅で私は防具を片付けていた。先輩が竹刀を袋にしまいながら、ふとこちらを見て言った。「お前、今日の面、良かったな」。それだけの一言だったのに、私はその日一日、その言葉だけを胸の中で繰り返していた。
文化祭の前日、部活動紹介の展示を作るため、部員数人で居残りをした夜があった。先輩と二人で模造紙に文字を書いていたとき、先輩がふと「お前、卒業したらどうすんの」と聞いてきた。私はまだ何も決めていなかった。「先輩は」と聞き返すと、先輩は少し困ったように笑って、「県外の大学、行くと思う」とだけ答えた。それ以上、何も言わなかった。
その夜、体育館を出ると、外はもう真っ暗だった。街灯の下で、先輩は自転車を押しながら、「じゃあな」と言って先に帰っていった。その背中が小さくなるまで、私はただ見送ることしかできなかった。
冬になると、朝練は真っ暗な中で始まった。体育館の隅にある古いストーブの前で、部員たちは開始前に手を温めた。先輩はいつも一番早く来て、ストーブに火を入れてくれていた。私が部室に着くころには、もう部屋の空気が少しだけ暖かくなっていた。
「早く来すぎだって、部長に怒られますよ」。そう言うと、先輩は「別にいいだろ、寒いんだから」とだけ答えて、竹刀の手入れを始めた。その横顔を見ながら、私はいつも、何か言いたいことがある気がしていた。でも結局、その日も何も言えなかった。
夏の大会前、稽古がいつもより厳しくなった。私は何度も同じ技を失敗し、面の中で悔しさに泣きそうになったことがある。そんなとき、先輩が横に来て、短く「大丈夫、次」とだけ言った。その一言に、何度も救われた。
引退試合の日、先輩は最後の一本を取られて負けた。面を外した先輩の顔は、汗と、それだけではない何かで濡れていた。私は何と声をかけていいか分からず、ただ竹刀を受け取って袋にしまうことしかできなかった。
「ありがとな」。先輩はそれだけ言って、防具を担いで先に道場を出て行った。その背中を見送りながら、私は「先輩」と呼びかけようとして、結局何も言えなかった。喉の奥で、言葉がそのまま固まってしまったようだった。
引退後も、先輩はときどき朝練の様子を見に来てくれた。差し入れのスポーツドリンクを部室の前に置いていくだけで、多くを語らずに帰っていく。その静かなやり方が、先輩らしいと思った。
卒業式の日、先輩は私のところに来て、古い竹刀の柄革を一つ手渡した。「これ、俺が二年の時使ってたやつ。お前、いつも柄の握りが甘いから」。それだけ言うと、先輩は少し照れたように笑って、それきり何も付け加えなかった。
私は「ありがとうございます」と言うのがやっとで、他に言いたかった言葉は、結局その場でも出てこなかった。先輩は他の卒業生に呼ばれて、すぐに人混みの中へ歩いていった。
その後ろ姿を見ながら、私は柄革を両手で握りしめていた。桜の花びらが一枚、風に流されて足元に落ちるのが見えた。何か言わなければ、と思うのに、体育館中に響く歓声と拍手の中で、私の声はどこにも届かないような気がした。結局、その日も「先輩」と、心の中で呼びかけただけで終わった。
私はその柄革を、ずっと竹刀に巻いたまま使い続けた。先輩が卒業してからも、朝練のたびにその感触を確かめるように竹刀を握った。誰にも言えなかった気持ちは、その革の手触りの中に、静かにしまわれたままだった。
三年生になり、今度は私が後輩の面や小手を直す番になった。「ここ」と一言だけ言って紐を締め直すとき、私はいつも佐伯先輩のことを思い出した。あの人がしてくれたことを、今、自分がしているのだと気づくたびに、少し胸が痛んだ。
大学に進んでからも、私は剣道を続けた。柄革はさすがに擦り切れて、二度、三度と巻き替えた。それでも最初にもらったものだけは、道場の隅の道具箱に、捨てられずにずっと残っていた。
大学の稽古仲間に、先輩のことを話したことは一度もない。話せば、何か大切なものが壊れてしまう気がしていた。誰にも言わないまま、その気持ちだけをずっと持ち続けていた。
一度だけ、大学の合宿で年下の後輩に「好きな人はいなかったんですか」と聞かれたことがある。私は少し笑って、「昔、剣道部の先輩がいたよ」とだけ答えた。それ以上は何も話さなかった。後輩は「それだけですか」と不思議そうにしていたが、私にとってはそれで十分だった。言葉にできなかったものを、無理に言葉にする必要はないと思っていた。
社会人になり、剣道からは少しずつ遠ざかった。それでも年に一度、昔の防具を虫干しする日がある。面を持ち上げ、小手を並べ、竹刀を一本ずつ確かめる。その作業の途中で、ふと佐伯先輩の「ここ」という一言を思い出すことがある。
先輩とは、あれから一度も会っていない。県外の大学に進んだと聞いたきり、消息を知らない。人づてに、剣道はもう続けていないと聞いたこともあるが、それが本当かどうかも分からない。それでも不思議と、寂しさより先に、あの部室の匂いと、竹刀の乾いた音の記憶の方が、いつも先に浮かんでくる。
言えなかった言葉は、今でも喉の奥のどこかにある気がする。でもそれを、後悔だとは思わない。柄革の感触を確かめるとき、あの朝練の空気を思い出すとき、私はいつも同じ場所に、静かに立ち返ることができるから。
もし今、先輩にもう一度会えたとしても、きっと私は同じように、何も言えないままかもしれない。それでいいと思う。伝えることだけが、想いの形ではないと、今の私は知っている。
面をつけたまま、言えなかった言葉がある。それでいい、と今の私は思う。あの一言一言が、ちゃんと私の中に残っている。それだけで、十分だったのかもしれない。
虫干しを終え、道具箱の蓋を閉じる。窓の外では、今日も遠くの道場から、かすかに竹刀の音が聞こえてくる気がした。
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