📖 この台本について
⏱ 読了時間:約10分(3,000字)
👤 登場人物:女性1名(1人用)
🎭 ジャンル:日常・ほっこり
🎙 用途:朗読配信・練習・ボイスサンプル
📋 ご利用規約:こちらをご確認ください
作品について
地方の古い商店街に構える小さな金物屋。その店を三十年ひとりで守ってきた父が、ある春の日に膝を悪くして入院した。代わりに番をすることになった娘が、埃っぽいガラスケースや見慣れない道具たちと向き合いながら、父が積み上げてきた時間を少しずつ受け取っていく——そんな、静かな引き継ぎの物語です。
この作品の読みどころは、父の不在を通じてその存在の大きさが浮かび上がる構造にあります。劇的な事件は起きません。ただ、常連のおじいさんが慣れた手つきで棚を指差す場面や、父の几帳面な字で書かれたメモを見つける場面など、ささやかなディテールの積み重ねが、ゆっくりと胸に届きます。
朗読は全編を通じて穏やかなトーンで構いません。ただし、父のメモを読む場面や最後の一文は、声のテンポを少し落とし、余白を大切にして読むと、聞き手の心に静かな余韻が残ります。感情を押しつけず、風景を丁寧に描き出すように語りかけてください。
▶ 朗読のポイントを見る(朗読される方向け・クリックで展開)
① 語りのトーン
全体を通じて、落ち着いた女性の独白として読んでください。「父の店に立つのは、これが初めてではないはずなのに、どこか違う場所みたいだった」という冒頭からも分かるように、非日常の緊張感を抑えた声の中に滲ませるのが効果的です。声を張らず、まるで日記を読み上げるような、柔らかな語り口を意識してみてください。
② 緩急のつけ方
「何の釘ですか、と聞いたら、おじいさんは少し考えてから、細い方、と言った」のような会話が入る場面では、地の文よりもわずかにテンポを落とし、登場人物の間(ま)を大切にしてください。逆に、父のメモを読むくだりは一語一語を確かめるように、じっくり声に乗せると聞き手が自然と引き込まれます。
③ 感情表現のコツ
涙を誘うような演技は必要ありません。この作品の感情は「静かな発見」の連続です。父の字を目で追いながら「ああ、こういう人だったんだ」と腑に落ちる瞬間——そういう小さな気づきを、声の間と息遣いで表現してください。感情を乗せるのではなく、情景を丁寧に置いていくイメージで読むと自然に仕上がります。
④ ラストの処理
最後の一文「春の光が、ガラスケースの中でゆっくり動いていた」は、読み終えた後に一拍分の間を置いてください。フェードアウトするように声を収め、余音が消えるまで沈黙を保つことで、聞き手に静かな余韻が届きます。慌てて次の言葉に移らず、物語の空気をそのまま残すことを意識してください。
台本本文
父の店に立つのは、これが初めてではないはずなのに、どこか違う場所みたいだった。
幼い頃は夏休みになると毎朝ここへ来て、カウンターの隅で宿題をしていた。父は何も言わず、黙って接客をして、昼になると奥から冷やした麦茶を持ってきた。それだけのことが、妙に懐かしかった。
父が入院したのは、この春のことだ。長年痛めていた膝が、とうとう限界を迎えたらしい。手術は無事に終わったが、リハビリに少なくとも一カ月はかかると言われた。「店は閉めておけ」と言う父に、私は「見ておくから」と答えた。深く考えたわけじゃない。ただ、三十年続いた店をそのまま閉めておくのが、なんとなく忍びなかった。
翌朝、シャッターを開けた。冷たい空気と一緒に、油と金属の混ざったような匂いが流れ出てきた。子どもの頃から知っているはずの匂いなのに、いつもより少し濃く感じた。父がいないせいかもしれない。
店の中は、父が几帳面に整えたままだった。ガラスケースの中には、ドライバーやペンチ、様々なサイズのレンチが並んでいる。棚には釘や蝶番、引き戸のレールなんかが、小さな仕切りのついたプラスチックの箱に収められていた。ひとつひとつに父の字でラベルが貼ってある。几帳面で、少し窮屈そうな、父らしい字だ。
カウンターに入ると、レジの横に一冊のノートが置かれていた。表紙に「よく聞かれること」と書いてある。開いてみると、最初のページにこう書いてあった。
「ホームセンターにはないサイズを聞いてくるお客が多い。在庫がない場合は取り寄せ。業者への連絡先は、奥の引き出し左上の名刺ファイル。急ぎの場合は三日で届く」
次のページには「瀬川さん(隣の花屋)は毎週火曜に棚板用のビスを買いに来る。Mサイズの六十ミリ。一袋でいつも足りないと言うが、実際はちょうど足りているはず。念のため二袋勧めること」と書いてあって、私は思わず声を出して笑った。
父がこんなにお節介な人間だったとは、正直あまり知らなかった。無口で、余計なことを言わない人だと思っていた。でもこのノートは、どのページにも誰かのことが書いてある。お客さんの名前、好む商品、気になっていること。父は黙ったまま、ずっとここを見ていたんだ。
午前中は静かだった。通りを歩く人はちらほらいるけれど、店に入ってくる人はいない。窓越しに商店街を眺めながら、私はカウンターの椅子に座って、ノートの続きを読んでいた。
昼過ぎに、最初のお客がやってきた。七十代くらいのおじいさんで、帽子をかぶっていた。入ってくるなり、真っ直ぐガラスケースの前へ行って、釘を探し始めた。
「あの、何かお探しですか?」
声をかけると、おじいさんはこちらをちらっと見て、「娘さんか」と言った。父のことを知っているらしい。
「はい、父が入院中なので、代わりに」
「そうか。膝か」
「ええ」
おじいさんはまたケースの中に目を戻して、指先でガラスを軽く叩いた。
「これと同じ釘、あるかな。ちょっと細い方で」
見ると、おじいさんの手には古い釘が一本あった。使い込んで少し錆びている。私にはサイズが分からなかったので、父のノートを開いた。釘のページを探すと、ちゃんとサイズの見分け方が書いてあった。「頭の径を測ること。ノギスは引き出し右」。
引き出しからノギスを取り出して、恐る恐る測ってみた。おじいさんは急かさず、黙って待っていてくれた。なんとかサイズを割り出して、棚から近いものを三種類出してみる。おじいさんはひとつひとつ手に取り、「これでいい」と一袋選んだ。
「ありがとうございます」と私が言うと、おじいさんは代金を置きながら、「お父さんによろしく」と言った。それだけ言って、帽子のつばに手を当てて出て行った。
その後も、午後になると数人のお客が来た。電球のソケットを探している人、網戸の張り替え用のゴムを買いに来た人、郵便受けのネジが合わなくなったと困っている人。みんな、父の店に慣れた様子で来て、棚を眺め、必要なものを見つけて帰っていく。
私はそのたびにノートを開いた。父のメモは驚くほど細かくて、「郵便受けのネジはメーカーによってピッチが違う。念のため現物を持参してもらうこと」なんてことまで書いてあった。おかげで、なんとか対応できた。
夕方、シャッターを閉める前に、私はもう一度店の中を見回した。埃っぽいガラスケース。整然と並んだ道具たち。几帳面なラベルの文字。三十年分の時間が、この狭い空間にぎっしり詰まっているような気がした。
父に電話をかけた。
「今日、お客さん何人か来たよ」
「そうか」
「ノート、助かった。よくあんなに書いておいてくれたね」
電話の向こうで、少し間があった。
「当たり前のことを書いただけだ」
父はそれだけ言った。いつもの、短い答え方だった。でも私には、その短さが前よりも少し分かる気がした。
電話を切って、シャッターの鍵をかけた。商店街はもう夕暮れで、隣の花屋の瀬川さんが店じまいをしているのが見えた。目が合うと、軽く会釈してくれた。
明日もここに来る。父が戻ってくるまでの間、もう少しこの店のことを知ろうと思う。それは誰かに頼まれたわけじゃない。ただ、そうしたいと思った。
春の光が、ガラスケースの中でゆっくり動いていた。
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