【無料・フリー台本】ただいまの温度|5分・1人用・日常ジャンル|声の書庫

日常・ほっこり

「ただいまの温度」

 十一月の夕方というのは、妙に人を感傷的にさせる。空の端がオレンジから紫に溶けていく、あのわずかな時間のことだ。

 会社帰りの電車の中、佐藤は吊り革を握りながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。今日は特別なことは何もなかった。会議があって、昼に牛丼を食べて、コピー機が詰まって、少しだけ残業した。それだけだ。それだけなのに、どうしてこんなに疲れているんだろう。

 最寄り駅に着いて改札を出ると、冷たい風がコートの襟元に滑り込んできた。

「さむ……」

 思わずひとりごとが漏れる。マフラーを鼻まで引き上げながら、いつもの道を歩き始めた。商店街の八百屋から、大根と油揚げのにおいがした。今日の夜ごはん、何にしようか。冷蔵庫にはたしか、豆腐と卵と、あとはよく覚えていない何かがある。

 アパートの階段を上がって、鍵を取り出したとき、ドアの前に小さな袋が置いてあることに気づいた。茶色い紙袋で、口のところにリボンがかかっている。

 佐藤は屈んで袋を手に取った。中を見ると、みかんが三つと、小さなメモが入っていた。

「もらいもんだけど、よかったら。 ―202号室より」

 202号室。斜め下の角部屋だ。引っ越してきて一年になるが、ちゃんと話したことはほとんどない。顔を合わせれば軽く会釈する、その程度の関係だった。たしか、少し白髪まじりの、静かそうなおじさんだったと思う。

 佐藤は紙袋を抱えたまま、しばらくドアの前に立っていた。

 部屋に入って、コートを脱いで、袋からみかんを三つ取り出してテーブルに並べた。丸くて、少しかたちがふぞろいで、でも色はちゃんとオレンジ色だった。

「一個、食べよ」

 皮を剥くと、甘酸っぱいにおいがぱっと広がった。一房口に入れると、思っていたより甘くて、じわっと果汁が広がった。

 悪くない。いや、かなり、おいしい。

 佐藤はソファに深く沈みながら、二房目を口に運んだ。テレビもつけずに、ただみかんを食べていた。外では風が少し強くなってきていて、窓がかすかに鳴っている。

 お礼、何か返そうかな。

 でも何がいいだろう。お菓子? ちょっと大げさかな。お手紙? それも柄じゃない。じゃあ、今度廊下で会ったとき、ちゃんと言おう。「ありがとうございました、おいしかったです」って。それだけでいい。それだけで、たぶん十分だ。

 みかんを全部食べ終えて、佐藤はメモを折りたたんで、なんとなく財布の中にしまった。捨てる気にはなれなかったから、それだけの話だ。

 台所に立って、冷蔵庫を開けた。豆腐と卵と、あとは思い出した、ねぎが半分残っていた。

「湯豆腐にしよ」

 鍋に水を張りながら、佐藤はまだ、さっきのみかんの甘さを、舌の奥に感じていた。

 今日は特別なことは何もなかった。でも、悪くない夜になりそうだった。

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