三日降り続いた雨が、ようやく上がった午後のことだった。
町外れにある小さな図書館は、駅前に新しい複合施設ができてから、利用者がめっきり減ってしまった。それでも常連の顔ぶれだけは、判で押したように毎日やってくる。下校途中に寄っていく小学生、新聞を読みにくる年金暮らしのおじいさん、夏期講習の帰りらしい高校生。そして、午後三時になると必ず現れる、白髪の老紳士。
司書の美咲は、カウンターの内側で返却された本の整理をしながら、ちらりと入り口の方を見た。古い柱時計が、ちょうど三時を打ったところだった。
「こんにちは」
ガラス戸を押して入ってきたのは、やはりあの老紳士だった。グレーのツイードジャケットに、丁寧に磨かれた革靴。濡れた傘を傘立てにそっと差し込む所作まで、いつもと寸分変わらない。
「鈴木さん、こんにちは。雨、上がってよかったですね」
「ええ。ですが、こういう雨上がりの匂いも、私は嫌いじゃないのですよ。なんというか、世界が一度、顔を洗ったような心地がしましてね」
鈴木と呼ばれた老紳士は、穏やかに笑って、いつもの窓際の席へと向かった。美咲はその背中を見送りながら、小さく息をついた。鈴木さんがこの図書館に通い始めて、もう三年になる。けれど、美咲は彼のことをほとんど何も知らない。どこに住んでいて、何を生業にしていたのか。家族はいるのか。ただ、毎日同じ時刻に来て、同じ席で本を読み、五時になると静かに帰っていく。それだけだった。
美咲は返却本の山から一冊を手に取った。古い装丁の、詩集だった。背表紙が色褪せて、ほとんど題名も読めないほど使い込まれている。
「あら」
ページの間から、一枚の紙片がはらりと落ちた。拾い上げてみると、それは古いしおりだった。薄い和紙の上に、押し花の、小さなすみれが挟み込まれている。ずいぶん昔に作られたものらしく、花びらはほとんど透けそうなくらい薄くなっていた。
美咲はそのしおりを持って、窓際の鈴木さんのところへ向かった。この詩集を先週借りていたのは、確か鈴木さんだったはずだ。
「鈴木さん、これ、お忘れ物ではありませんか」
声をかけると、鈴木さんは読んでいた本から顔を上げた。そして、美咲の手の中のしおりを見て、ほんの少し、目を見開いた。
「……ああ。これは、これは」
鈴木さんはしおりを受け取って、しばらく手のひらの上で眺めていた。窓から差し込む雨上がりの光が、押し花のすみれを淡く照らしている。白髪に縁取られた横顔が、ふと、遠い場所を見るような表情になった。
「家内のものでしてね」
ぽつりと、鈴木さんが言った。
「あの詩集も、元はといえば家内が好きだったものです。私はずっと、本なんてものには縁のない人間でしてね。町工場で、機械ばかりいじっておりました。油と鉄のにおいがすっかり染みついていて、家内にはずいぶん嫌がられたものです」
鈴木さんはそこで、ふふ、と小さく笑った。
「家内が亡くなってから、遺された本を一冊ずつ、順番に読むことにしたのですよ。家内がどんな本を、どんなふうに読んでいたのか。今さらながら、知りたくなりましてね。何しろ働き盛りの頃は、家内が本の話をしても、ふんふんと聞き流すばかりで。もっと、ちゃんと聞いておけばよかったと、今になって思うのです」
美咲は、何と返していいかわからなかった。ただ、鈴木さんの穏やかな横顔を見つめていた。
「そのしおりは、家内が押し花を作るのが好きだったものですから。庭で摘んできた花を、分厚い辞書に挟んで、何日もかけて乾かしてね。出来上がると、それはもう嬉しそうに、片っ端から本に挟んでいくのです。だから、家内の本を開くたびに、こうしてぽろりと出てくる。そのたびに、ああ、ここを家内も読んだのだな、と思いましてね」
鈴木さんは、しおりを大切そうに詩集に挟み直した。
「すみません、妙な話をしてしまって」
「いえ、そんな」
美咲は首を振った。
「素敵な、読み方だと思います」
鈴木さんは、少しはにかむように笑った。それから、カウンターに戻りかけた美咲を、ふと呼び止めた。
「司書さんは、どんな本がお好きですか」
三年間、毎日顔を合わせていて、初めての質問だった。美咲は、少し驚いて立ち止まった。
「私は……児童書が、好きです。子どもの頃に読んだものを、大人になってから読み返すのが、特に」
「ほう。それは、いい趣味ですな」
鈴木さんは、しみじみとうなずいた。
「大人になってから読む児童書には、子どもの頃には見えなかったものが見える。あれは、不思議なものですね。同じ本のはずなのに、まるきり違う物語のように読めてしまう」
「はい。本当に」
美咲は、胸の奥が小さく温かくなるのを感じた。
「私、小さい頃、体が弱くて。外で遊ぶよりも、家で本を読んでいる時間の方が長かったんです。母が図書館に連れて行ってくれて、いつも同じ司書さんが、私の名前を覚えてくれていて。今日はどんな本にしましょうかって、笑ってくれるのが、嬉しくて」
言いながら、美咲は自分でも少し驚いていた。鈴木さんに、自分のことをこんなふうに話すのは、初めてだった。
「それで、司書さんになられた」
「はい。たぶん、そうなんだと思います」
鈴木さんは、目を細めて美咲を見た。その視線は、やわらかくて、どこか懐かしい人を見るような光を帯びていた。
「いい司書さんに、出会われたのですな」
「……はい」
美咲は、ほんの少し、声が詰まった。
それから二人は、カウンター越しに、ぽつり、ぽつりと、好きな本の話をした。鈴木さんの奥さんが好きだったという作家のこと。その人が書いた海辺の町を舞台にした小説のこと。美咲が子どもの頃に繰り返し読んだ、魔法使いの女の子の出てくる絵本のこと。
「その絵本はね、最後のページに、魔法が解けても、残るものがあるって書いてあるんです。子どもの頃はよくわからなかったんですけど、大人になって読み直したら、なんだか、急にわかったような気がして」
「残るもの、ですか」
「はい。たぶん、一緒に過ごした時間とか、交わした言葉とか。そういうものなんじゃないかって」
鈴木さんは、しばらく黙って、窓の外を見ていた。雨に濡れた木々が、光を跳ね返してきらきらと輝いている。
「そうですな」
ぽつりと、鈴木さんが言った。
「きっと、そうです」
その声が、あんまり静かだったので、美咲は何も言えなかった。ただ、窓から差し込む光が、詩集の表紙を、そっと撫でるように照らしているのを見ていた。
五時の鐘が鳴った。鈴木さんはいつものように、静かに本を閉じて立ち上がった。カウンターまで来て、詩集を返却の箱にそっと置く。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
美咲が頭を下げると、鈴木さんはカウンターの前で少し立ち止まって、それから、ふと思い出したように言った。
「明日は、家内が好きだった小説を持ってきましょうか。もう私は読み終えてしまったのですが、司書さんに、読んでみていただきたくて。感想を、聞かせていただけるとありがたい」
「はい。ぜひ」
美咲は、微笑んで答えた。
「楽しみにしています」
「では、また明日」
鈴木さんは、丁寧にお辞儀をして、ガラス戸の向こうへと消えていった。傘を持たずに、軽い足取りで。雨はもう、すっかり上がっていた。
誰もいなくなった図書館で、美咲はカウンターに戻って、また返却本の整理を始めた。古い柱時計が、かちこち、かちこちと、静かに時を刻んでいる。詩集はまだ、返却箱の一番上に置かれたままだった。
美咲はそっとその本を手に取って、もう一度開いてみた。押し花のしおりが、さっきと同じページに挟まっている。そのページには、短い詩が書かれていた。
――残るもの、という詩だった。
美咲は思わず、小さく笑った。笑ってから、少しだけ、泣きそうになった。
雨上がりのやわらかな光が、古い図書館の床を、ゆっくりと満たしていく。明日も、三時になれば、あのガラス戸は開くだろう。そう思うと、美咲はなんだか、少しだけ、この仕事が好きになった気がした。
柱時計の音だけが、いつまでも、いつまでも、静かに響いていた。


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