町のはずれに、誰も名前を知らない図書館があった。
煉瓦造りの古い建物で、蔦に覆われた壁の上に、小さな天文台のドームが乗っている。昼間、その前を通る人はみな、一様に首をかしげた。扉がないのだ。いや、正確には、扉はある。けれどどう押しても、どう引いても、鍵穴に何を差し込んでも、その扉は決して開かない。だから誰もが、その建物をただの古い廃墟だと思っていた。子どもたちは「おばけ屋敷」と呼び、大人たちは「いつか取り壊される場所」と呼んだ。
けれどその図書館は、夜にだけ、ほんのときどき、扉を開ける。
そして、本当に迷っている者の前にだけ、その姿を現すのだった。
ある冬の夜、少女はその前に立っていた。
名前を、思い出せなかった。年齢も、家も、家族の顔も。覚えているのは、自分が何かをひどく大切に抱えていた、ということだけ。両手はからっぽなのに、腕の中にはまだ、確かに何かの重みが残っている気がした。あたたかくて、小さくて、自分より少しだけ弱いもの。その輪郭だけが、胸の奥に焼きついていた。
雪がちらついていた。息が白く凍る。コートの裾はほつれ、靴は片方、踵がすり減っていた。どこから歩いてきたのかも、なぜここに来たのかも、わからなかった。ただ、体が勝手にここへ向かっていた。まるで、忘れものを取りに帰るように。
少女はふらふらと、光の漏れる扉に手を伸ばした。
扉は、軋む音も立てずに開いた。
中は、思っていたよりもずっと広かった。天井は夜空のように高く、そこに本棚がどこまでも続いている。棚の一つ一つに、金の文字で背表紙の題名が書かれていて、時折、ひとりでに淡く光る本があった。棚と棚の間には古い木の梯子がかかり、宙には蝋燭が浮かんでいた。蝋燭は、ゆっくりと泳ぐように棚から棚へ移り、誰かが本を読みやすいように、そっと光を添えていた。
空気は、埃ではなく、古い紙とインクと、ほんの少しの雪の匂いがした。
遠くのほうで、ページをめくる音だけが、かすかに聞こえていた。
「——迷い込んだのかい」
声がして、少女は振り向いた。
棚の陰から、背の高い男が、静かに現れた。眼鏡の奥の瞳は、夜明け前の空の色をしていた。黒い上着の裾には、星屑のような銀の刺繍が散っていて、歩くたびに、小さくきらめいた。年齢は、見ただけではわからなかった。若いようにも、ずっと年老いているようにも見えた。
「ここは、忘れられた星図書館。持ち主を失くした物語が集まる場所だよ」
「……物語が、集まる?」
「そう。人が忘れてしまった記憶、誰にも語られなかった願い、口に出せなかった謝罪、読まれることのなかった手紙。そういうものが、ここでは一冊の本になる」
男はそう言って、近くの棚から一冊、本を抜き出した。表紙は色あせた青で、金の糸で小さな船が刺繍してあった。
「たとえば、これは、海で別れた恋人を五十年待ち続けた女性の物語だ。彼女は結局、その人には会えないまま生涯を終えた。けれど、待ち続けたその気持ちは、消えずにここへ来た」
男は静かに本を棚に戻した。
「忘れられた、と言ってもね、消えたわけではないんだよ。ただ、行き場所をなくしただけだ」
男は少女の顔を、静かに見つめた。そして、小さく息を吐いた。
「きみも、一冊、失くしているね」
少女は胸に手を当てた。そう言われて初めて、自分の中に大きな空洞があることに気がついた。胸の真ん中に、本がちょうど一冊入るくらいの、空っぽの場所。そこから、冷たい風が吹いていた。
「……探せるんですか」
「ここにあるなら、ね。私は司書だ。本を探すのが仕事だよ」
司書は蝋燭を一本、手のひらに呼び寄せた。炎はまっすぐに伸びて、棚の奥へと、道を示すように揺れた。
「ついておいで。きみの本は、きっときみを呼んでいる」
二人は歩き出した。
棚の間を進むほどに、本の背表紙の文字が変わっていった。古い言葉、知らない文字、星の配置のような記号。ある棚には、ひとことも書かれていない真っ白な本ばかりが並んでいた。
「あれは、言葉にならなかった物語だよ」司書は少女の視線に気づいて言った。「悲しみすぎて、嬉しすぎて、誰にも話せなかったもの。けれど、白いからといって、何もないわけじゃない」
時折、棚の隙間から光がこぼれ、そのたびに少女の足元に、見知らぬ景色が一瞬だけ広がった。
誰かの結婚式。花嫁のベールの向こうで、誰かが泣いていた。
海辺で、砂を握りしめたまま、ただ立ち尽くしている子ども。
満開の桜の下で、手紙を一枚ずつ燃やしていく、白髪の老人。
深い森で、振り返ることをこらえている、小さな兵士。
「……これは、みんな」
「誰かが、忘れた物語さ」司書は静かに言った。「忘れることは、悪いことじゃない。人は忘れなければ、前に進めない。けれど、忘れられた物語にも、行き場所が必要なんだ。それがここだ」
少女は歩きながら、指先で、本の背にそっと触れた。どの本も、ほんのりとあたたかかった。
やがて、ある棚の前で、少女の指が、自分でも気づかないうちに止まった。
銀色の表紙の、小さな本だった。
題名は、ない。けれど、触れた瞬間、胸の空洞が、わずかに痛んだ。まるで、ずっと呼ばれていたことに、今ようやく気づいたみたいに。
「……これ」
「開いてごらん」
少女は震える手で、その本を棚から抜き取った。表紙はひんやりと冷たくて、少しだけ、雪の匂いがした。
本を開く。
最初のページに描かれていたのは、小さな女の子だった。真新しい産着の、生まれたばかりの弟を、そっと抱きしめている。女の子の頬は赤く、目には、驚きと喜びが、いっぱいに詰まっていた。
次のページ、二人は庭で花を摘んでいた。姉は摘んだ花で冠を作り、弟の頭にのせてやっていた。
その次、姉は弟に絵本を読んでやっていた。夜の寝室で、二人の頭の上には、紙で作られた星の模型が、細い糸で吊るされていた。手作りの、いびつな星。けれど、弟はその星を何よりも喜んだ。
ページをめくるたびに、少女の目から、涙がこぼれた。涙は本に落ちる前に、きらきらと光って、空気に溶けて消えた。
「……思い出した」少女はつぶやいた。「わたし、お姉ちゃんだったんだ」
ページは進んでいく。
弟が初めて歩いた日。弟が初めて「ねえね」と呼んだ日。一緒に川で遊んで、二人ともずぶぬれになって、母に叱られた日。
やがて、絵はだんだん暗くなっていった。
弟が高い熱を出した夜。姉が付きっきりで、氷を替え続けた夜。医者が首を横に振った朝。
ページをめくる手が、震えていた。
そして——真っ白なページが、一枚だけ、現れた。
少女の手が止まった。
「……ここから先が、ないの」
司書は少し離れた場所で、黙って立っていた。しばらくして、静かに口を開いた。
「きみは、弟さんを失ったんだよ」
少女は顔を上げた。
「あまりにも悲しくて、きみの心は、弟さんとの思い出を全部、この図書館に預けた。楽しかった日々も、苦しかった最後の日々も、全部。悲しみごと、ここに置いていったんだ。そうしなければ、きみはきっと、生きていけなかったから」
「だからきみは、名前も、家も、家族の顔も、忘れてしまった。預けた本が大きすぎて、他の記憶まで、一緒に連れていかれたんだ」
雪のような沈黙が、ふたりの間に落ちた。
少女は、真っ白なページを見つめた。
するとその向こうに、失われたはずの景色が、少しずつ滲んで現れてきた。
病室の、白いシーツ。
握った小さな手の、冷たさ。
窓の外で、春の雪が降っていたこと。
弟が最後に、ほんの少しだけ目を開けて、笑ったこと。
「ねえね、ありがとう」と、かすれた声で言ったこと。
そしてそのあと、静かに、眠るように逝ってしまったこと。
涙は、もう止まらなかった。少女の肩が震え、膝から力が抜けて、その場にくずおれた。それでも本だけは、放さなかった。胸に強く抱きしめて、声を上げて泣いた。
司書は、何も言わなかった。ただそばに立ち、少女が泣きやむのを、静かに待っていた。
どれくらい、時間が経っただろう。
涙が少しだけ落ち着いた頃、少女は顔を上げ、かすれた声で言った。
「……持って帰っても、いいですか」
司書は、ほんの少しだけ、驚いた顔をした。
「この本、わたしが持って帰っても」
「……持ち帰る人は、久しぶりだよ」
司書は、とても優しく微笑んだ。
「ここに預けた人は、みんな言うんだ。思い出したら、きっと生きていけない、と。だからほとんどの本は、ここに置かれたままになる。持ち主は、自分がここへ預けたことさえ忘れて、生きていく。それはそれで、一つの選び方だ」
「でも——きみは、違う選択をするんだね」
少女はうなずいた。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも、まっすぐに司書を見た。
「忘れたままでいる方が、楽なのは、知ってます。思い出したら、きっと、毎日泣いてしまうことも」
「でも……忘れたままだと、あの子がもう一度、いなくなってしまう気がするから。わたしが覚えていなかったら、あの子はどこにも、いなくなってしまう」
「だから、連れて帰ります。悲しみごと、全部」
司書は静かにうなずいた。そして懐から、銀色のペンを一本、取り出した。
「それなら、最後のページに、きみが書くといい」
「真っ白なままで終わらせないで、続きを書いてあげなさい。この本は、きみと弟さんの物語なのだから。終わらせる権利があるのは、きみだけだ」
少女はペンを受け取った。ペンは、少し重くて、少しだけあたたかかった。
真っ白なページに、少女は、ひとことだけ、書いた。
——ずっと、覚えているよ。
文字は、書いたそばから星の光になって、ページの上に小さく瞬いた。やがてその光は、紙の星座のように、ページの隅で静かに並び、やわらかく輝き続けた。
少女が本をそっと閉じたとき、図書館の空気が、ほんの少しだけ、あたたかくなった気がした。
「……ありがとうございました」
「礼を言うのはこちらだよ」司書は首を振った。「この図書館にある本は、みんな、誰かが迎えに来るのを、ずっと待っているんだ。きみが迎えに来てくれたこと、この本も、きっと喜んでいる」
司書は、扉まで少女を送った。
扉を開けると、外はもう、夜明けが近かった。雪はやんでいて、東の空が、薄く金色に染まり始めていた。鳥が一羽、低く鳴きながら、空を横切っていった。
「あの」少女は振り返った。「また、来てもいいですか」
司書は穏やかに笑った。
「迷子になったら、いつでも。扉は、迷っている人の前にだけ、開くから」
「でもね——きみはもう、迷子じゃない。だから、しばらくは来なくていい。ちゃんと、生きておいで。泣いていい日は泣いて、笑える日は笑って。きみの人生の続きを、ちゃんと、書いておいで」
「その本は、きみが持っているうちは、きっと一緒に、続きを書いてくれる」
少女はうなずいて、深く、頭を下げた。
扉が、静かに閉まった。
振り返ると、そこにはもう、古い廃墟があるだけだった。扉は固く閉ざされ、蔦が絡みつき、押しても引いても、開かない。まるで、最初から何もなかったみたいに。
けれど少女の腕の中には、たしかに、銀色の小さな本があった。胸の空洞は、埋まっていた。重たくて、あたたかくて、少しだけ、痛かった。
その痛みが、生きているということなのだ、と少女は思った。
少女は雪の上に、最初の一歩を踏み出した。
足跡は、朝日の中で、きらきらと光っていた。
家族の顔も、自分の名前も、少しずつ、戻ってきていた。これから帰る家がある。待っている人がいる。そして、腕の中には、決して置き去りにしない、小さな弟の物語がある。
——町のはずれの、誰も名前を知らない図書館。
今夜もそこには、持ち主を失くした物語たちが、静かに頁を閉じて、迎えに来る誰かを、じっと、じっと、待っている。
いつか、きみも、扉の前に立つかもしれない。
そのときは、どうか、怖がらないで。
忘れたものは、ちゃんと、そこで待っているから。


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