祖母が亡くなったのは、桜がちょうど満開になった、よく晴れた日のことだった。
九十二歳。大往生、というのだろう。親戚たちは口々にそう言って、涙よりもむしろ、ほっとしたような顔をしていた。長い入院生活の末の、静かな最期だった。病室の窓から差し込む光の中で、祖母はほんの少しだけ口元をゆるめて、それから、まるで眠るように息を引き取った。
私は、孫の中でいちばん祖母に可愛がられて育った。両親が共働きだったので、小学校から帰ると、まっすぐ祖母の家に向かうのが日課だった。縁側で、祖母が剥いてくれる林檎を食べながら、学校であった出来事を話す。祖母はいつも、うん、うん、とうなずきながら、こちらの話を最後まで聞いてくれる人だった。
「ばあちゃん、あのね」
「うん」
「今日ね、図工の時間に、先生にほめられたの」
「あら、それはよかったねえ」
他愛のない話ばかりだった。けれど祖母は、決して聞き流したりしなかった。どんなに小さなことでも、まるで世界でいちばん大切な話を聞くみたいに、ゆっくりとうなずいてくれた。
葬儀が終わって、四十九日も過ぎた頃。遺品整理のために、私は久しぶりに祖母の家を訪れた。主を失った家の中は、しんと静まり返っていて、線香の香りだけが、かすかに漂っていた。
「美咲ちゃん、悪いけど、これ、見ておいてくれない? おばあちゃんの机の引き出し」
母が、段ボール箱を指差して言った。祖母の古い机の、いちばん下の引き出しに入っていたものを、そのまま箱に移したらしい。
「うん、わかった」
私は縁側に腰を下ろして、箱の中を一つずつ確かめていった。古い写真、色あせた便箋、孫たちからの絵葉書。それから、私が小学生のときに作った、歪な形の陶器の皿。祖母は、こんなものまで大事に取っておいてくれたのかと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
箱の底の方に、一通の封筒があった。
白い、少し黄ばんだ封筒。表には、丸みのある祖母の字で、こう書かれていた。
――美咲ちゃんへ
私は、手を止めた。
裏を返すと、日付が書いてあった。今から、三十年ほど前の日付だった。私が、まだ生まれたばかりの頃だ。
胸がどくん、と鳴った。
私はそっと封を切って、中の便箋を取り出した。三枚ほどの便箋に、祖母の字が、びっしりと並んでいた。インクは少し薄くなっていたけれど、一文字一文字が、今書かれたばかりのようにはっきりと、紙の上に残っていた。
「美咲ちゃんへ」
声に出して、読み始めた。縁側には、祖母の家の庭の、小さな桜の木が見えていた。祖母がまだ元気だった頃に、私と一緒に植えた木だ。
「この手紙を美咲ちゃんが読む頃、おばあちゃんはもう、この世にいないかもしれません」
最初の一行で、私は息を呑んだ。
「美咲ちゃんは今、生まれたばかりで、小さな小さな赤ちゃんです。今日、初めておばあちゃんの家に来て、お昼寝をしていきました。お母さんに抱っこされて眠っている美咲ちゃんの顔を見ていたら、なんだかね、急に、手紙が書きたくなったのです」
私は、文字を指でなぞった。
「おばあちゃんは、もう六十を過ぎています。美咲ちゃんが大人になる頃には、きっと、おばあちゃんはいなくなっているでしょう。だから、今のうちに、伝えておきたいことを書いておこうと思いました」
便箋をめくる手が、少し震えた。
「美咲ちゃん。あなたが大きくなっていくのを、おばあちゃんがどこまで見られるかはわかりません。もしかしたら、小学校に入る前にお別れかもしれないし、もしかしたら、大人になるところまで見届けられるかもしれない。それは、神様しか知らないことです」
「でもね、おばあちゃんは、あなたが生きていく全部の日々を、見られなくても、ちゃんと応援しています。あなたが笑う日も、泣く日も、怒る日も、くじける日も。全部です」
私は、目の奥が熱くなるのを感じた。
「美咲ちゃんは、きっと優しい子に育つと思います。だって、今、おばあちゃんの腕の中で、こんなに安心して眠ってくれているのだもの。人を信じられる子は、きっと、優しい大人になります」
「でもね、美咲ちゃん。優しい子は、時々、自分が傷つくことに慣れてしまうことがあります。人のことばかり考えて、自分のことを後回しにしてしまう。おばあちゃんも、若い頃はそうでした。だから、美咲ちゃんにはね、一つだけ、覚えておいてほしいのです」
三枚目の便箋に入った。祖母の字が、少しにじんで見えた。それが涙のせいなのか、時間のせいなのか、私にはわからなかった。
「自分を、大切にしてあげてください」
「疲れたら、休んでいいのです。泣きたいときは、泣いていいのです。誰かに頼りたいときは、頼っていいのです。おばあちゃんは、美咲ちゃんが頑張っているところよりも、美咲ちゃんが幸せに笑っているところが、いちばん見たいのです」
私は、便箋を握りしめた。
「もしも、いつか、美咲ちゃんが、つらくて、どうしようもなくなったとき。この手紙のことを思い出してください。おばあちゃんは、もうこの世にいなくても、ずっと、美咲ちゃんのそばにいます。あなたが生まれた日に、あなたの小さな手を握ったときから、ずっと、ずっと、そばにいます」
「美咲ちゃん。生まれてきてくれて、ありがとう」
「おばあちゃんの人生の、いちばん最後の何十年かを、あなたと一緒に過ごせたこと。これが、おばあちゃんの、いちばんの宝物です」
手紙は、そこで終わっていた。
私は、しばらく、動けなかった。
縁側に座ったまま、便箋を膝の上に置いて、ただ、庭の桜の木を見ていた。風が吹いて、小さな白い花びらが、ひらひらと、私の膝の上に落ちてきた。
三十年前。
祖母はまだ、六十代だった。今の、私の母と、そう変わらない年齢だ。その年齢で、祖母は自分の死を見つめて、生まれたばかりの孫に、手紙を書いた。
そして、それを、三十年間、黙って引き出しにしまっておいたのだ。
私が読むかどうかもわからない手紙を。読まれなくても、それでいいと思いながら。
「ばあちゃん」
私は、小さな声で呼んだ。
返事は、なかった。当たり前だった。
でも、風が吹いた。もう一度、桜の花びらが、ひらり、と私の膝に落ちた。まるで誰かが、そっと私の肩に手を置いたような、そんな気配があった。
私は、思い出していた。祖母が、縁側で林檎を剥きながら、何度も何度も、私に言ってくれた言葉を。
「美咲ちゃん、無理しちゃだめだよ」
「つらいときは、泣いてもいいんだからね」
「美咲ちゃんが笑ってくれるのが、ばあちゃん、いちばん嬉しいの」
あの言葉たちは、三十年前のこの手紙から、続いていたのだ。祖母はずっと、この手紙に書いたことを、言葉を変えながら、形を変えながら、私に伝え続けてくれていた。
私は、気づかなかった。当たり前のように、祖母のやさしさを受け取って、当たり前のように、大人になっていた。
気がつくと、私は、泣いていた。
声も立てずに、ただ、涙が、ぽたり、ぽたりと、便箋の上に落ちた。祖母の字が、少しにじんだ。でも、もう、読めなくなっても、いい気がした。この手紙の言葉は、もう、ぜんぶ、私の中に入っていた。
「ばあちゃん」
私は、もう一度、呼んだ。
「ありがとう」
庭の桜が、風に揺れて、また、花びらを散らした。その光景が、祖母の、あのやわらかな笑顔と、重なって見えた。
私は便箋を丁寧にたたんで、封筒に戻した。そして、胸に、そっと抱いた。封筒の紙は、祖母の手の温もりを、まだ覚えているような気がした。
これから先、私がどれだけ年を重ねても、きっと、この手紙は、私のそばにある。祖母がそうしてくれたように、今度は私が、この言葉を、誰かに伝えていくのかもしれない。いつか、私にも、大切な誰かが生まれたときに。
桜は、まだ、散り続けていた。
祖母のいない春の空は、驚くほど青くて、やさしかった。


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